「アヘン戦争」の版間の差分

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==戦争勃発==
[[1839年]][[11月3日]]、林則徐による貿易拒否の返答を口実にイギリスは戦火を開き、清国船団を壊滅させた。'''「麻薬の密輸」'''という[[開戦理由]]に対しては、清教徒的な考え方を持つ人々からの反発が強く、イギリス本国の[[庶民院|議会]]でも、野党[[保守党 (イギリス)|保守党]]の[[ウィリアム・グラッドストン]](後に[[自由党 (イギリス)|自由党]]首相)らを中心に'''「こんな恥さらしな戦争はない」'''などと反対の声が強かったが(そういうグラッドストン自身も、登壇する前にはアヘン製剤で気分を落ち着かせているのは有名だった)、清に対する出兵に関する予算案は賛成271票、反対262票の僅差で承認され、この議決を受けた[[イギリス海軍]]は、イギリス東洋艦隊を編成して派遣した。
 
艦隊は[[広州市|広州]]へは赴かず、いきなり[[天津市|天津]]沖に姿を現した。[[北京市|北京]]に近い天津に軍艦が現れたことに驚いた清政府は(政権内の権力闘争も加わって)林則徐を解任し、イギリスに対する政策を軟化させた。
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==戦争の余波==
=== 清への影響 ===
阿片戦争は清側の敗戦であったが、これについて深刻な衝撃を受けた人々は限られていた。[[北京市|北京]]から遠く離れた[[広東省|広東]]が主戦場であったことや、中華が夷狄(いてき:異民族)に敗れることはまま歴史上に見られたことがその原因である。しかし一部の人々は、イギリスがそれまでの中国の歴史上に度々登場した夷狄とは異なる存在であることを見抜いていた。たとえば林則徐のブレーンであった[[魏源]]は、林則徐が収集していたイギリスやアメリカ合衆国の情報を委託され、それを元に'''『[[海国図志]]』'''を著した。「夷の長技を師とし以て夷を制す」という有名な一節は、これ以後の中国近代史がたどった西欧諸国の技術・思想を受容して改革を図るというスタイルを端的に言い表したことばである。この書は東アジアにおける初めての本格的な世界紹介書であった。それまでにも地誌はあったが、西欧諸国については極めて粗略で誤解に満ちたものであったため、詳しい情報を記した魏源の『海国図志』は画期的であったといえよう。
 
====アヘンと銀====