「レオポルト3世 (アンハルト=デッサウ公)」の版間の差分
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[[ファイル:Leopold III of Anhalt-Dessau.JPG|thumb|老境のレオポルト3世]]
[[ファイル:Dessau,Denkmal von Leopold III. Friedrich Franz (Anhalt-Dessau).jpg|thumb|デッサウに建つレオポルト3世像]]
'''レオポルト3世・フリードリヒ・フランツ'''('''Leopold III. Friedrich Franz , Fürst und Herzog von Anhalt-Dessau''', [[1740年]][[8月10日
== 生涯 ==
アンハルト=デッサウ侯[[レオポルト2世 (アンハルト=デッサウ侯)|レオポルト2世]]とその妻で[[アンハルト=ケーテン]]侯[[レーオポルト (アンハルト=ケーテン侯)|レオポルト]]の娘であるギーゼラ・アグネスの間の長男として生まれた。1751年に両親が相次いで亡くなると、叔父で[[ブランデンブルク=プロイセン|プロイセン]]元帥の[[ディートリヒ・フォン・アンハルト=デッサウ|ディートリヒ]]
レオポルト3世は父や祖父[[レオポルト1世 (アンハルト=デッサウ侯)|レオポルト1世]]と同様にプロイセン軍に入隊したが、[[1757年]][[6月18日]]の凄惨な[[コリンの戦い]]を経験した後、戦争のネガティブな側面に衝撃を受け、軍隊を除隊してアンハルト=デッサウ侯領の中立を宣言した。レオポルト3世は大の[[アングロフィル]]であり、[[啓蒙主義]]思想の熱心な支持者だった。彼は侯領の領民
レオポルト3世は[[1785年]]に成立した[[君侯同盟]]とは対立し、プロイセンの覇権に抵抗する姿勢を見せた。[[1806年]]には、彼の評判を聞きつけた[[ナポレオン・ボナパルト]]に
== 子女 ==
*[[フリードリヒ・フォン・アンハルト=デッサウ|フリードリヒ]](1769年 - 1814年)
また何人もの愛妾とのあいだに大勢の庶子をもうけている。
結婚前の恋人だったヨハンナ・エレオノーレ・ホーフマイヤー(1746年 - 1816年)との間には
*ヴィルヘルミーネ・エレオノーレ・フリーデリケ(1762年)
*フランツ(1763年 - 1823年)
*ルイーゼ・エレオノーレ・フリーデリケ(1765年 - 1804年)
自分に仕える庭師の娘で重婚をしたルイーゼ・ショーホとの間には、
*ヴィルヘルミーネ・ジドーニエ(1789年 - 1860年)
*ルイーゼ・アーデルハイト(1790年 - 1870年)
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