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'''アルチーデ・デ・ガスペリ'''(Alcide De Gasperi, [[1881年]][[4月3日]] - [[1954年]][[8月19日]])は[[イタリア]]の[[政治家]]。[[キリスト教民主主義 (イタリア 1942-1994)|キリスト教民主主義]]の創設者。1945年から1953年にかけて計8つの連立政権において[[イタリアの首相|首相]]を務めた。首相としての8年という在任期間は現代の7年8ヶ月に及び、これは戦後イタリアにおいて連続在任期間では1位、在任期間の記録となっていさでも[[シルヴィオ・ベルルスコーニ]]に次ぐ2位である。デ・ガスペリは[[フランス]]の[[ロベール・シューマン]]、[[ドイツ]]の[[コンラート・アデナウアー]]らと並んで[[欧州連合]]の父の1人に数えられている。
 
==生涯==
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=== 首相在任中 ===
1945年から1953年にかけてデ・ガスペリはキリスト教民主主義を中心とした8期連続の政権で首相を務めた。878ヶ月という在任期間は現代連続したものとしては戦後イタリアの政治において最長記録となっている。デ・ガスペリの首相在任中、1946年のイタリア共和政移行、1947年の講和条約調印、1949年の[[北大西洋条約機構]]加盟、そして[[アメリカ合衆国]]との同盟締結は[[マーシャル・プラン]]によるイタリア経済の復興につながっていった。また同年、イタリアは[[欧州石炭鉄鋼共同体]]に加盟し、同共同体はのちに欧州連合へと発展していった。
 
1944年6月に[[ローマ]]が連合国軍に占領され[[ピエトロ・バドリオ]]が政権を退いたことにより、デ・ガスペリは当初は無任所大臣、その後外相に就任する。1945年12月、デ・ガスペリは[[イタリア共産党]]、[[イタリア社会党]]と連立を組んで首相に就任する。このとき共産党党首[[パルミーロ・トリアッティ]]が副首相に就く。デ・ガスペリは連合国による対イタリア講和条約の条件緩和を試み、また共産党は反対したが、マーシャル・プランによる財政・経済支援を確保した。