「ニューアーク (防護巡洋艦)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Beeken (会話 | 投稿記録)
m →‎艦歴: モニター艦link
64行目:
1899年3月23日にニューヨークを出航したニューアークは南アメリカの偵察を行い、途中多くの港を訪問した。航海途中の4月7日、ニューアークは[[マゼラン海峡]]を通って[[サンフランシスコ]]へ向かう様命じられる。ニューアークは[[石炭]]が不足し、[[チリ]]のポート・ロウへの寄港を強いられた。5月31日から6月22日まで同港に立ち寄り、燃料として木を切った。ニューアークは9月4日に[[メア・アイランド海軍工廠]]に到着し、修理を行った後10月17日に出航、[[ホノルル]]を経由して11月25日に[[フィリピン]]の[[カヴィテ]]に到着、[[米比戦争]]での[[アメリカ陸軍]]を支援した。[[ルソン島]]の[[ビガン]]沖に停泊したニューアークは、駐屯部隊を上陸させた後12月10日に[[アパリ]]に移動、[[カガヤン州]]、[[イサベラ州]]、[[バターン州]]で敵の降伏を受諾した。
 
1900年3月19日に香港に向けて出航し、3月22日に[[モニター艦|モニター]]の[[モナドノック (モニター)|モナドノック]] (''USS Monadnock, BM-3'') と合流、船団はカヴィテに向かった。4月3日に到着し、24日に横浜に向けて出航、3日後に到着した。その後ニューアークはアジア艦隊副司令官ルイス・ケンプ少将の乗艦となり5月20日に[[中国]]へ向けて出航、[[義和団の乱]]鎮圧部隊の増援に向かう。5月22日に[[天津市|天津]]に到着、ニューアークは同地を拠点として[[大沽炮台]]、[[煙台市|煙台]]で作戦活動に従事する。その後7月末に[[日本]]の[[呉市|呉]]に向かい、続いてカヴィテに移動、フィリピン戦隊司令官の乗艦となる。1901年4月半ばに帰国の途に就き、[[香港]]、[[セイロン]]、[[スエズ]]を経由して7月後半に[[ボストン]]に到着、7月29日に退役した。
 
ニューアークは1902年11月3日に艦長[[リチャード・ウェインライト]]中佐の指揮下再就役し、12月14日に南部水域での任務のために出航した。続く2年にわたってニューアークは北大西洋艦隊の一部として西インド諸島および南アメリカの沖合で作戦活動に従事した。1904年10月27日から1905年1月9日まで短期間ノーフォークに帰還し、その後西インド諸島での任務を再開、バージニア沖合での演習の後6月に海軍兵学校の訓練艦任務に配属される。9月15日に[[アナポリス]]で予備役となり、1906年5月3日に現役復帰、2度目の東海岸での訓練巡航に入る。この任務の後、9月13日にノーフォーク入りし、[[アメリカ海兵隊|海兵隊]]の部隊を乗艦させると17日にキューバに向けて出航した。ニューアークは10月19日に帰還し、11月9日に[[ニューヨーク海軍工廠]]で退役した。