「砂子義一」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
25行目:
[[1965年]]前後は「砂子晴彦」と改名してレースに出場<ref>1964年に生まれた息子の智彦の発育がいまひとつだったため、元気に育つよう願かけの意味で改名したという。</ref>。同年8月のKSCC1時間でスカイラインGTに乗り3位。
 
[[1966年]]、日本初の本格的[[プロトタイプレーシングカー]]である[[プリンス・R380]]に乗り、同年5月の[[1966年日本グランプリ (4輪)|第3回日本グランプリ]]で優勝。宿敵というべき[[ポルシェ・906]]を破り、1964年の第2回日本グランプリの雪辱を果たした。同年8月にプリンスと日産が合併し、両社のワークスチームも合併。砂子は以後、日産ワークス(一軍のいわゆる[[追浜ワークス]])のドライバーとして活躍する。
 
[[1967年]]5月、[[1967年日本グランプリ (4輪)|第4回日本グランプリ]]に[[日産・R380]](改良型のA-2)で出場し3位<ref>プリンスを離脱しポルシェ・906でプライベート出場した[[生沢徹]](優勝)と、日産R380に乗る[[高橋国光]](2位)の激しい競り合いで有名なレース。</ref>。
 
[[1968年]]5月、日本グランプリに[[日産・R381]]で出場し6位。