「舞昆のこうはら」の版間の差分

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'''こうはら本店'''とは、大坂老舗の[[昆布]]商である。平成元年以来「養宜館」を屋号に付けている。
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[大坂老舗]<!--(意味不明[昆布商]ため平成元年以来「[[養宜館]]」を屋号に付す。コメントアウト)暦応三年(室町時代)源の[[細川師氏]](みなもとのほそかわもろうじ)が祖先、足利尊氏が北朝方で挙兵し、[室町幕府]を開幕した際に手柄を立てた[[細川三兄弟]]の末っ子。
[淡路島]の守護職として[[細川]]一族は八代まで栄えた。[[倭寇]]の本拠地である瀬戸内海の小島の海賊を組織し、[[水軍]]として[[室町幕府]]を海上から支えた。三代将軍[[足利義満]]が、暇を出した[[管領細川家]]頼春を迎えに四国に渡る際、師氏は朝靄のかかる海を100艘の水軍で迎えにいった話しは語り継がれている。この水軍を引き連れ、政商としてアイヌと交易を通じて海産物を独占していた。三男である師氏は、[[アイヌ]]の海産物の中でも昆布を運んでいた。
[[淡路島]]にある[[沼島]]は[[細川水軍]]中最強であった。[[黒潮]][[親潮]]を巧みに渡り北海道の交易を続け師氏の財政を支えていた。
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 応仁の乱がはじまり淡路島は三好氏に攻められ、居城[養宜館]は焼き尽くされ、一族は討ち死にしたと歴史に記されている。応仁の乱は、細川三兄弟から150年を経て、末裔が兄弟喧嘩をした乱である。
6歳になった八代の千代丸は城をでて松林に逃げ込み乳母は樹木の腐った穴を見つけ、八代目を隠した。
以後、-->
以後来歴としては[[応仁の乱]]で活躍した細川姓を父祖と伝えている。乱以降、姓を改め[鴻原]と名乗り、海産物商として、昆布商初代[[鴻原正一]]が丁稚奉公した。その後、独立し「[[こうはら]]」の創始となる。昭和後期の大阪は、[をぐら屋]系列の[[汐吹き昆布]]と[こうはら本店]系列の椎茸昆布佃煮の塩昆布の2大昆布商が競い合っていた。
 
==2代目[[森蔵]]==
 2代目[[森蔵]]は、[[農水省祭]]りの品評会で農林水産大臣賞を受賞した[[職人気質]]。甘味料を自由に使いこなし、「[[味覚の魔術師]]」の異名を持つ。
森蔵は、隠し味にも功績があり、塩昆布の隠し味に昆布の出汁以外に、イカナゴの出汁や貝の出汁、椎茸の出汁を自由に使いこなす、コツは冷蔵庫で出汁を出すことを考案し、京都の料亭では[森蔵出汁]とも呼ばれている。
 
 森蔵は昆布を発酵させる研究を続け、ついに[[発酵食品の塩昆布]]の開発に成功した。この研究には[[大阪府立大学]]農学部]]との共同研究の成果であるが、大阪府が1000万円単位で研究補助金を投入した食の[[大阪]]の威信をかけたもので、大阪府知事賞まで受賞している。
 2代目[[森蔵]]は、[[農水省祭]]りの品評会で農林水産大臣賞を受賞した[[職人気質]]。甘味料を自由に使いこなし、「[[味覚の魔術師]]」の異名を持つ。
森蔵は、隠し味にも功績があり、塩昆布の隠し味に昆布の出汁以外に、イカナゴの出汁や貝の出汁、椎茸の出汁を自由に使いこなす、コツは冷蔵庫で出汁を出すことを考案し、京都の料亭では[森蔵出汁]とも呼ばれている。
 森蔵は昆布を発酵させる研究を続け、ついに[[発酵食品の塩昆布]]の開発に成功した。この研究には[[大阪府立大学農学部]]との共同研究の成果であるが、大阪府が1000万円単位で研究補助金を投入した食の大阪の威信をかけたもので、大阪府知事賞まで受賞している。
 
 
==関連項目==
<!-- [[しいこん]]
 [[ようぎ昆布]]
 [[養宜館]]
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 [[師氏]]
 [[天然酵母が育てた贈り物]]
 [[発酵食品]]
 [[鴻原正一]]
 [[青富士]]
-->
 *[[発酵食品]]
 
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