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経歴、人物
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'''藤原 真楯'''(ふじわら の またて、[[霊亀]]元年([[715年]]) - [[天平神護]]2年[[3月12日 (旧暦)|3月12日]]([[766年]][[4月2925日]]))は、[[奈良時代]]の政治家[[貴族]]。初名は'''八束'''(やつか)。[[藤原北家]]の祖・[[参議]][[藤原房前|房前]]の三男として生まれる母は[[敏達天皇官位]]の子孫である[[皇族正三位]][[牟漏女王大納言]]。真楯は[[天平宝字贈位|贈]]4年([[760年太政大臣]])頃に賜った名で、それ以前の名は'''八束'''(やつか)である
 
== 経歴 ==
[[聖武天皇]]に才能を認められ寵愛を得るものの、同時代の有力者は[[藤原仲麻呂|仲麻呂]](恵美押勝)で、最も栄えていたのは[[藤原南家|南家]]であった<ref>『続日本紀』の真楯薨伝には仲麻呂と不仲で一時家に閉じこもっていたことが記されているが、実際には仲麻呂政権下でも順調に出世している。[[吉川敏子]]はこれは兄の永手伝の混入の結果であり、後に仲麻呂の唐風への官名改称には賛同していること、[[淳仁天皇]](実質は仲麻呂から)「恵美押勝」と同様の形式である唐風の「真楯」の名を授かっている点からも、両者には深刻な対立は無かったとしている(吉川敏子「仲麻呂政権と藤原永手・八束(真楯)・千尋(御楯)」(初出『続日本紀研究』294号、[[1994年]] 『律令貴族成立史の研究』[[塙書房]]、[[2006年]] ISBN 978-4-8273-1201-0 所収))。</ref>。また、当時の北家の[[嫡流]]は[[大臣]]にまで昇っていた兄の[[藤原永手|永手]]であり、氏族間の均衡が望まれて親子・兄弟で要職を占めることに批判がなお強かった[[奈良時代]]後期において[[大納言]]まで昇った事はその才覚による部分が大きいと言える。そして後年[[藤原氏]]で最も繁栄する[[藤原道長]]・[[藤原頼通|頼通]]親子などを輩出したのは、彼を祖とする北家真楯流である。
[[天平]]12年([[740年]])[[正六位|正六位上]]から[[従五位|従五位下]]次いで従五位上に続けて昇叙され、天平15年([[743年]])[[正五位|正五位上]]、天平16年([[744年]])[[従四位|従四位下]]と、[[聖武天皇]]に才能を認められその寵遇を得て急速な昇進を果たす。聖武朝においては、[[天皇]]の命により特別に[[上奏]]や[[勅旨]]を伝達する役目を担ったという。非常に明敏であるとしてこの頃誉れが高く、そのために従兄弟の[[藤原仲麻呂]]からその才能を妬まれることがあったが、これに気いた八束は病と称して家に閉じ籠もり、書籍を相手に過ごしたという<ref>『続日本紀』天平神護2年3月12日条の真楯薨伝による。ただし、これは兄の永手伝の混入の結果であり、後に仲麻呂の唐風への官名改称への賛同、および「恵美押勝」と同様の形式である唐風の「真楯」の名を賜与されている点から、両者には深刻な対立は無かったとする意見もある(吉川敏子「仲麻呂政権と藤原永手・八束(真楯)・千尋(御楯)」(初出『続日本紀研究』294号、[[1994年]] 『律令貴族成立史の研究』[[塙書房]]、[[2006年]] ISBN 978-4-8273-1201-0 所収))。</ref>。天平20年([[748年]])[[参議]]に任ぜられ、1歳年上の兄・[[藤原永手|永手]]に先んじて[[公卿]]に列す。
 
[[天平勝宝]]8年([[756年]])聖武上皇の崩御後まもなく、兄・永手が[[非参議]]から一躍[[中納言|権中納言]]に任ぜられ、八束は官途で先を越される。しかしながら、[[天平宝字]]2年([[758年]])の唐風への官名改称に賛同、[[天平宝字]]4年([[760年]])には唐風名「真楯」の賜与<ref>淳仁天皇からの賜与であるが、実質的には恵美押勝の意志による。</ref>を受けるなど、藤原仲麻呂政権下でも仲麻呂に協力姿勢を見せ、天平宝字4年(760年)[[従三位]]、天平宝字6年([[762年]])[[中納言]]と順調に昇進を続けた。またこの間、[[天平宝字]]2年([[758年]])に来朝した第4回[[渤海使]]の揚承慶が帰国する際に、八束は餞別の宴を開催し、揚承慶はこれに感動し賞賛している。
『[[万葉集|萬葉集]]』に[[短歌]]7首、[[旋頭歌]]1首の計8首収録。同書の補注などから[[大伴家持]]とは個人的親交があったと推測されている。
 
天平宝字8年([[764年]])の[[藤原仲麻呂の乱]]では[[称徳天皇|孝謙上皇]]側につき、[[正三位]]・[[授刀衛|授刀大将]]に叙任、勲二等を叙勲された。[[天平神護]]2年([[766年]])正月、[[右大臣]]に昇進した永手の後を受けて[[大納言]]に任ぜられるが、3月に死去。享年52。大臣としての形式で[[葬儀]]が行われ、[[太政大臣]]の[[官職]]を贈られた。
 
[[聖武天皇]]に才能を認められ寵愛を得るものの、同時代の有力者は[[藤原仲麻呂|仲麻呂]](恵美押勝)で、最も栄えていたのは[[藤原南家|南家]]であった<ref>『続日本紀』の真楯薨伝には仲麻呂と不仲で一時家に閉じこもっていたことが記されているが、実際には仲麻呂政権下でも順調に出世している。[[吉川敏子]]はこれは兄の永手伝の混入の結果であり、後に仲麻呂の唐風への官名改称には賛同していること、[[淳仁天皇]](実質は仲麻呂から)「恵美押勝」と同様の形式である唐風の「真楯」の名を授かっている点からも、両者には深刻な対立は無かったとしている(吉川敏子「仲麻呂政権と藤原永手・八束(真楯)・千尋(御楯)」(初出『続日本紀研究』294号、[[1994年]] 『律令貴族成立史の研究』[[塙書房]]、[[2006年]] ISBN 978-4-8273-1201-0 所収))。</ref>。また、当時の北家の[[嫡流]]は[[大臣]]にまで昇っていた兄の[[藤原永手|永手]]であり、氏族間の均衡が望まれて親子・兄弟で要職を占めることに批判がなお強かった[[奈良時代]]後期において[[大納言]]まで昇った事はその才覚による部分が大きいと言える。そして後年[[藤原氏]]で最も繁栄する[[藤原道長]]・[[藤原頼通|頼通]]親子などを輩出したのは、彼を祖とする北家真楯流である。
 
== 人物 ==
度量が広く、政治家として天皇の政務を助ける才能があった。
 
『[[万葉集|萬葉集]]』に[[短歌]]7首、[[旋頭歌]]1首の計8首収録。同書の補注などから[[大伴家持]]とは個人的親交があったと推測されている。
 
==系譜==
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==脚注==
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<references />
 
==関連項目==