「藤原真楯」の版間の差分

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経歴、人物
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== 経歴 ==
[[天平]]12年([[740年]])[[正六位|正六位上]]から[[従五位|従五位下]]次いで従五位上に続けて昇叙され、天平15年([[743年]])[[正五位|正五位上]]、天平16年([[744年]])[[従四位|従四位下]]と、[[聖武天皇]]に才能を認められその寵遇を得て急速な昇進を果たす。聖武朝においては、[[天皇]]の命により特別に[[上奏]]や[[勅旨]]を伝達する役目を担ったという。非常に明敏であるとしてこの頃誉れが高く、そのために従兄弟の[[藤原仲麻呂]]からその才能を妬まれることがあったが、これに気いた八束は病と称して家に閉じ籠もり、一時書籍を相手に日々を過ごしたという<ref>『続日本紀』天平神護2年3月12日条の真楯薨伝による。ただし、これは兄の永手伝の混入の結果であり、後に仲麻呂の唐風への官名改称への賛同、および「恵美押勝」と同様の形式である唐風の「真楯」の名を賜与されている点から、両者には深刻な対立は無かったとする意見もある(吉川敏子「仲麻呂政権と藤原永手・八束(真楯)・千尋(御楯)」(初出『続日本紀研究』294号、[[1994年]] 『律令貴族成立史の研究』[[塙書房]]、[[2006年]] ISBN 978-4-8273-1201-0 所収))。</ref>。天平20年([[748年]])[[参議]]に任ぜられ、1歳年上の兄・[[藤原永手|永手]]に先んじて[[公卿]]に列す。
 
[[天平勝宝]]8年([[756年]])聖武上皇の崩御後まもなく、兄・永手が[[非参議]]から一躍[[中納言|権中納言]]に任ぜられ、八束は官途で先を越される。しかしながら、[[天平宝字]]2年([[758年]])の唐風への官名改称に賛同、[[天平宝字]]4年([[760年]])には唐風名「真楯」の賜与<ref>淳仁天皇からの賜与であるが、実質的には恵美押勝の意志による。</ref>を受けるなど、藤原仲麻呂政権下でも仲麻呂に協力姿勢を見せ、天平宝字4年(760年)[[従三位]]、天平宝字6年([[762年]])[[中納言]]と順調に昇進を続けた。またこの間、[[天平宝字]]2年([[758年]])に来朝した第4回[[渤海使]]の揚承慶が帰国する際に、八束は餞別の宴を開催し、揚承慶はこれに感動し賞賛している。
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== 人物 ==
度量が広く、政治家として天皇の政務を助け補佐する才能があった。
 
『[[万葉集]]』に[[短歌]]7首、[[旋頭歌]]1首の計8首収録。同書の補注などから[[大伴家持]]とは個人的親交があったと推測されている。