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{{中華圏の人物
| 名前=蔡鍔
| 画像=[[ファイルFile:Cai E 2.jpg|200px220px]]
| 画像の説明=
| 出生=[[1882年]][[12月19日]]<br>([[清]][[光緒]]8年11月初10日)
| 死去=[[1916年]]([[中華民国紀元|民国]]5年)[[11月8日]]<br />[[ファイル:Flag of Japan.svg|25px]] [[日本国]][[福岡県]][[福岡市]]
| 出身地={{QIN1890}}[[湖南省]][[邵陽市|宝慶府邵陽県]]
| 職業=軍人
| 和名=さい がく
| 発音=ツァイ オー
| ラテン字=Ts'ai O
}}
 
 
=== 辛亥革命から護国戦争へ ===
[[ファイル:Cai E 2.jpg|thumb|蔡鍔別影|220px]]
[[1911年]]([[宣統]]3年)7月、蔡鍔は雲南省で新軍第19鎮第37協協統に任命される。同年10月10日、[[武昌起義]]([[辛亥革命]])が勃発すると、蔡は雲南省の革命派である[[李根源]]、[[唐継尭]]とともに、これに呼応して挙兵する計画を立てる。10月30日、蔡らは[[昆明市|昆明]]で挙兵し、[[雲貴総督]][[李経羲]]を捕虜として雲南省を掌握した([[重九起義]])。
 
11月1日、「大中華国雲南軍都督府」が設立されると、蔡は[[雲南省 (中華民国)|雲南]]都督に推戴された。蔡鍔は直ちに、雲南の軍事・政治の改革に取り組む。その清廉にして果断な政治姿勢により、省政の面目を一新したため、省を混乱させることなく、人心掌握に成功した。
 
[[1913年]]([[中華民国紀元|民国]]2年)5月、蔡鍔は梁啓超らが率いる[[進歩党 (中華民国)|進歩党]]の名誉理事となったが、まもなく辞任している。ただし、これ以後も、蔡と梁との関係は極めて密接である。同年7月、二次革命([[第二革命]])が勃発すると、蔡は[[袁世凱]]を支持した。しかし、袁は地方勢力の拡大を恐れ、子飼いでない地方都督を[[北京市|北京]]に呼び寄せ、籠絡と監視を行うようになった。同年10月、蔡も入京し、[[唐継尭]]が後任の雲南都督となった。
 
[[1915年]](民国4年)11月、袁世凱の帝政に反対した蔡鍔は、梁啓超らの援助で北京を脱出して雲南に戻った。12月25日、唐継尭らとともに雲南省の独立を宣言する。袁討伐のための護国軍が組織され、蔡は護国軍第1軍総司令となった(第2軍総司令[[李烈キン|李烈鈞]]、第3軍総司令唐継尭)。こうして[[護国戦争]]が始まったのである。
 
== 参考文献 ==
{{commonscat|Cai E}}
* <span style="font-size:90%;">{{Cite book|和書|author = [[謝本書]]|title = 討袁名将 蔡鍔|year = [[2007]]|publisher = 蘭州大学出版社|isbn = 7-311-01125-6}}</span>
* <span style="font-size:90%;">{{Cite book|和書|author = 劉寿林ほか編|title = 民国職官年表|year = 1995|publisher = [[中華書局]]|isbn = 7-101-01320-1}}</span>
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