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CXCV (会話 | 投稿記録)
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'''楊慎'''(よう しん、[[1488年]] - [[1559年]])は、[[明]]中国の文人。[[]]は用修、号は升庵、別の號に博南山人、博南戍史がある。諡は文憲。
 
== 生涯 ==
先祖の本籍は江西の廬陵。四川新都(現在の[[成都市]]新都区)に生まれる。父の[[楊廷和]]は少師大学士であった。4歳の時に母から唐代の絶句を教えられ、すぐに暗誦したという。12歳の時に祖母の訃報を受けた父に従って蜀に行き、そこで父から[[易経]]を教えられ、「古戦場文」という一文を作っている。文中「青楼は紅粉の魂を断ち、白日は翠苔の骨を照らす」という名句があり、人々に愛唱されたという。[[弘治 (明)|弘治]]14年([[1501年]])に渭城を通り過ぎたさい、「送別の詩」と「霜葉詩」を作り、さらに「万葉詩」が後に吏部尚書となる詩人の[[李東陽]]に認められ、その門人となった。[[正徳 (明)|正徳]]2年([[1509年]])に四川の郷試を受験し抜群の成績で選抜され、翌年には祭酒・[[玉類]]が慎を試験した後に「いずれ天下の士となるだろう」と評した。正徳4年([[1511年]])に礼部尚書に入り、正徳6年([[1513年]])の会試には第2位、殿試の第1位となり翰林修撰を授けられる。正徳9年([[1516年]])に経筵展書官となり「[[文献通考]]」を校訂する。慎は時の皇帝であった武宗[[正徳帝]]が宣府・大同・楡林などを軍人訓練と称して巡回し遊蕩にふけっていたことを憂い、たびたび切諫したが聴かれなかった。世宗[[嘉靖帝]]が即位し経筵(皇帝に対し講義をする役職)を開いたときにその講官となり「尚書」を進講した。[[嘉靖]]2年([[1523年]])に「武宗実録」を編纂。嘉靖3年([[1524年]])に父の楊廷和が大礼の議問題のために内閣大学士を辞任し、さらに[[桂萼]]・[[張璁]]らが起用されたことに反対し、皇帝に再三具申したために平民に落とされて雲州永昌衞に流刑となり、嘉靖38年6([[1559年]])6月に没する。享年72歳。著述は百余種におよび、ほとんど3000巻に近いという。
 
== 著作 ==
* {{lang|zh|}}程記』
* 『丹鉛總{{lang|zh|}}
* 『古音獵要』
* 『全蜀藝文志』
* 『春秋地名考』
* 『升菴詩話』
* 『升菴集』
 
== 参考 ==
* 『明書』147
 
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