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同年6月、[[本能寺の変]]で信長が死去し、武田遺領を巡って[[天正壬午の乱]]が起こると、家康の招聘を受けて[[徳川氏]]の家臣となった。[[信濃国|信濃]]・[[甲斐国|甲斐]]における旧[[武田氏]]家臣団の調略に大きな功績を挙げた。また、自ら徳川方に引き入れた[[真田昌幸]]と共に東信においてゲリラ戦を展開、甲斐[[若神子]]まで進出していた北条軍の補給線を寸断した。この事実と甲斐[[郡内]]において北条軍が徳川軍に敗北したことにより、戦力的には劣勢な徳川に有利な条件で後北条氏との講和が成立した。
 
天正11年(1583年)2月23日、北条方の[[大井行吉]]の信濃[[岩尾城]]攻略中に敵の銃撃を受け、その戦傷がもとで死去した。享年36。この時、弟の信幸も討ち死にしている。のちに長男の松平(依田)康国が整備した[[蕃松院]]が墓所となる。同寺に信蕃の位牌と、信蕃夫妻の墓所とされる墓石塔が残る。
 
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