「フォンテーヌブローの勅令」の版間の差分

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== その影響 ==
しかし、そうした賞賛の声の裏で、まだ残っていた多くの新教徒がフランスを脱出して国外、特にドイツへ移住した。中でも「[[ポツダム勅令]]」を出して彼らを保護した[[ブランデンブルク選帝侯|ブランデンブルク]]選帝侯国(後の[[プロイセン王国]])へは数万人が移住し、18世紀初頭には[[ベルリン]]の人口のうち三分の一はフランス人だったとは、よく言われることである。現在でもドイツにはユグノーの末裔が住んでいる(例えば[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]最後の[[ドイツの首相|閣僚評議会議長(首相)]]だった[[ロタール・デメジエール]]など)
また、宗教的熱狂が冷めてみると、勤勉な新教徒が失われたことによる経済的損失は大きかった。[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]によれば、「数州の地方はこのために著しく人口が減少し、今日にいたるまで人々は、ナントの勅令の廃止を後悔している」。
新教徒を受け入れた側の誇張もあるだろうが、フランスの産業と資本の蓄積が遅れた一因とは言えるだろう。影響の一つとして、フランス経済及び財政の枯渇化もその一因とされる。それは、100年後の[[フランス革命]]にも遠因を与えていると言えるだろう。