「中国学」の版間の差分

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明治期には新しい中国学のなかにも漢学的伝統の影響が残り続けた。先述の通り東大においては特に漢学の影響が強く、また漢学者の貢献として[[林泰輔]]の[[甲骨文字]]研究、[[簡野道明]]・[[諸橋轍次]]による[[漢和辞典]]編纂、一大叢書『漢文大系』([[冨山房]]版)編集への協力があった。しかし[[帝国大学]]で育成された[[白鳥庫吉]]・[[服部宇之吉]]・[[狩野直喜]]ら新世代の中国学者たちが[[ドイツ]]・[[フランス]]などに留学し当時最先端の文献学的シノロジーの方法を吸収して帰国すると、漢学者たちに代わって彼らが研究の主流になっていった。特に新設の京都帝大では、留学中[[エドゥアール・シャヴァンヌ|シャヴァンヌ]]と交流を持った狩野直喜が教授に迎えられたこともあって、フランス・シノロジーの強い影響を受けた学風を形成した。この狩野に、ジャーナリスト出身で独自の文化史観を展開した[[内藤湖南]]、中国留学により清朝考証学の方法を吸収した[[桑原隲蔵]]が加わり'''「[[京都学派#東洋史学|京大支那(シナ)学]]」と称される一大学派が形成された'''のである。
 
日本における支那学の特徴は、古来より中国と同じ文化圏に属し、さらに漢学の知的蓄積を全面的に継承・利用することが可能であったため、'''漢文文献の読解・分析に勝れている'''点が挙げられる。だが新世代の中国学者たちがそうした強みを生かし、また'''新たに学んだ西洋文献学の手法'''も取り入れてオリジナルな研究成果を発表するようになるのは、とくに日清・日露戦間期以降のことである(それ以前は[[那珂通世]]『支那通史』など概説的・啓蒙的レベルに止まっていた)。この時期日本は中国を含む[[東アジア]]への[[帝国主義]]的進出を本格化し、中国に対する社会的関心が高まった。さらに同時期、スタインやペリオなどヨーロッパ人学者による西域の探検調査が行われ、その成果が大々的にアピールされたことは、いわば「お家芸」を自負してきた日本の中国学者たちに危機感を抱かせることになった。この結果、日本独自の業績を発信しようとする動きが起こり、京都帝大の哲・史・文の支那学者は前記の狩野・内藤・桑原らを中心に大同団結し、'''西洋のシノロジーを強く意識し自らの学問を「支那学」と称した'''。そして研究団体として「支那学会」を結成、[[19191920年]]には学会の事実上の機関誌として『[[支那学 (雑誌)|支那學]]』を創刊、[[1947年]]まで刊行を続けた。
 
[[1924年]]には[[三菱財閥]]が購入した中国関連の欧文書籍コレクション「モリソン文庫」を基に、漢文文献を加えて[[東洋文庫]]が設立され、研究機能を併せもつ日本最初の中国学・[[東洋学]]の専門図書館となった。[[昭和時代]]に入ると、日中共同の[[東方文化事業]](中国からの[[義和団事件]]賠償金を基金に運営)の一環として[[東方文化学院]]が[[1929年]]に東京・京都に設立され、古典学的な中国学研究を担っていくことになった。東方文化学院はその後廃止されるが、その東京研究所は[[東京大学東洋文化研究所]]に吸収、京都研究所は京大に移管され現在の[[京都大学人文科学研究所|人文科学研究所]]および[[京都大学人文科学研究所附属漢字情報研究センター|漢字情報研究センター]]の前身となっている。