「執金剛神」の版間の差分

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インドでは'''ヴァジュラパーニ'''と呼ばれ、造形的には半裸形で表現されている。中国・日本では、忿怒相で身体を甲冑で固めた武神として表される。
 
日本の遺例としては、[[東大寺]]・[[法華堂]](三月堂)の塑像([[国宝]])が知られる。堂内において北側の厨子に安置され、年1回だけしか開扉が許されていないため、極めて保存状態が良い。奈良朝の造像としては、金箔・彩色が表面に非常によく残存しており、貴重な存在である。
 
また、京都の[[金剛院 (舞鶴市)|金剛院]]の木像は、鎌倉時代に[[快慶]]の手によって、東大寺・法華堂像に学んで作られた。
 
== 起源 ==
その起源は[[ギリシャ神話]]の英雄[[ヘラクレス]]であるとされる。ヘラクレスは「獅子の毛皮を身に纏い、手に棍棒を持つ髭面の男性」という姿で表されるのが一般的だが、インドにおける執金剛神の造形も、それと同様である。<ref>前田たつひこ「ガンダーラのヴァジラパーニをめぐる一考察」(『象徴図像研究―動物と象徴』2006/03 ISBN 9784862090072)</ref>
 
== 東大寺三月堂の執金剛神像 ==
奈良時代の彫刻を代表する作例の一つ。天平期の天部像は大陸から伝えられた様式的なものであったが、奈良時代になって様々な姿や形を表現した写実的な彫刻が作られるようになり、日本独自な作風が完成した。本像はその中でも初期のものである。
 
全高173.9cmの塑造<ref>塑像とも。木を芯にして粘土で造形した彫刻。木彫よりも製作に際しての自由度が大きい反面、もろく壊れやすいのが欠点。奈良時代に写実的な彫刻が隆盛すると多くの作品が作られたが、平安時代以降にはほとんど見られなくなった。</ref>で、革の鎧を着用して右手に金剛杵を構えた立像である。目を見開き、口を大きく開けて怒号しており、目には暗緑色の石をはめ込んで生気を持たせているほか、浮き出した血管や筋肉の表現が奈良彫刻の写実性を表している。像全体としては、上半身と下半身のバランスが悪くやや安定感を欠くが、静的な天平期の天部像に対して動的で生き生きとした作風の傑作といえる。
 
[[日本現報善悪霊異記|日本霊異記]]によれば、東大寺が建立される以前のその地にいた金鷲行者(こんじゅぎょうじゃ、こんすぎょうじゃ)<ref>伝未詳。東大寺建立の先駆けとなった[[良弁]]が金鐘行者と呼ばれており、彼は幼少期に鷲にさらわれて、後の東大寺創建の地に来たという伝説があるので、それを基にした架空の人物か。別伝によれば、良弁自身が執金剛神像を崇拝しており、[[聖武天皇]]がその徳を讃えて東大寺を建立したという。</ref>の念持仏であったとされるが、製作者・製作年代はわかっていない。しかし長年にわたって秘仏として厨子に納められてきたため、製作当初の彩色がよく残っており、朱と緑を中心として全身が鮮やかに彩られていた事がわかる。これはこの像のみの特色ではなく、当時の天部や仏像の大部分は華やかに彩色されており、年月がたつと共に剥落したものである。