「藤原経清」の版間の差分

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その名が登場する史料は、長年『[[陸奥話記]]』のみとされており、藤原姓も私称ではないかとされてきたが、近年、[[永承]]2年([[1047年]])の五位以上の藤原氏交名を記した『造[[興福寺]]記』に「経清六奥(六奥は陸奥の意)」と見えることが指摘されている。この史料によると、少なくとも[[藤原氏]]の一族の係累に連なる者と中央の[[藤原氏]]からも認められており[[従五位]]に昇任し、[[散位]]ではあったようである。
 
[[長久]]元年([[1040年]])より数ヵ年国府の推挙により、[[修理職|修理大夫]]として在京し、[[陸奥守]][[藤原登任]]の下向に同行したとの説がある。[[俘囚]](ふしゅう)長で[[奥六郡]]の支配者である[[安倍頼時|安倍頼良(頼時)]]の娘([[安倍貞任]]の妹、史料では「有加一乃末陪」と記載されている)を妻に迎え、曰理(わたり、現宮城県亘理郡)の[[鹿島神社]](現亘理町逢隈字鹿島)付近に居を構え、荘園経営を行うと同時に交通の要衝を支配し関所に金銀山米銭寺という寺社を建立し、そこを通過するものから高い交通税を課し財力を蓄えていたとされ<ref>菅野円蔵著「大鳥城記」山川出版1970年刊</ref>、さらに[[平国妙]]の外戚と言う記述が[[奥州御舘系図]]に見えることから2,3代以前から奥州に土着していたとするのが自然であるとする考えもある。<ref>高橋富雄著「<small>奥州藤原四代</small>平泉」㈱教育社1993年刊ISBN4-315-40158-7</ref>やがて安倍氏が朝廷への貢租を怠る状態になったため、登任は安倍氏征討の兵を出したが鬼切部の戦いで逆に敗れてしまった([[前九年の役]]の始まり)。この戦いでは経清は安倍氏側、<!--側としたのは臣下の立場でなく豪族一族同士の連合だから-->に属していたが、敗北して更迭された登任の後任に[[源頼義]]が任じられ、大赦によって許された頼時が[[朝廷]]に帰服すると、経清もまた頼義に従った。[[阿久利川事件]]をきっかけに安倍氏が蜂起し再び合戦に至ると、同じく頼時の娘を妻に迎えていた[[平永衡]]が謀反の疑い(甲冑をことさら派手にして舅に自軍の位置を知らせたとの讒言による嫌疑)で殺される。わが身にも同様の危機が迫っていると判断した経清は安倍氏の多賀城奇襲の噂を流し、頼義が急遽多賀城に引き上げた機に兵800を率い再び安倍氏に属する。黄海の戦いで安倍氏が大勝した後、前九年の役は長期化し、一時は衣川以南の住民も国府の命令(赤符)に服さず経清の徴税の札(白符)に従うほど、安倍氏はその勢力を誇示した。
 
やがて安倍氏が朝廷への貢租を怠る状態になったため、登任は安倍氏征討の兵を出したが鬼切部の戦いで逆に敗れてしまった([[前九年の役]]の始まり)。この戦いでは経清は安倍氏に属していたが、敗北して更迭された登任の後任に[[源頼義]]が任じられ、大赦によって許された頼時が[[朝廷]]に帰服すると、経清もまた頼義に従った。[[阿久利川事件]]をきっかけに安倍氏が蜂起し再び合戦に至ると、同じく頼時の娘を妻に迎えていた[[平永衡]]が謀反の疑い(甲冑をことさら派手にして舅に自軍の位置を知らせたとの讒言による嫌疑)で殺される。わが身にも同様の危機が迫っていると判断した経清は安倍氏の多賀城奇襲の噂を流し、頼義が急遽多賀城に引き上げた機に兵800を率い再び安倍氏に属する。黄海の戦いで安倍氏が大勝した後、前九年の役は長期化し、一時は衣川以南の住民も国府の命令(赤符)に服さず経清の徴税の札(白符)に従うほど、安倍氏はその勢力を誇示した。
 
4年半のこう着の後、頼義は、安倍氏と同じ俘囚の長であった[[出羽]][[仙北]]の[[出羽清原氏|清原氏]]に多くの財宝を送って援兵を求め、清原氏の協力で前九年の役は厨川の戦いを最後に終結し、安倍氏は滅亡した。{{要出典範囲|源頼義の苦戦は経清の計略による部分が多かったと推測され、そのためもあり}}頼義の恨みが殊のほか深く、経清は捕縛された後、頼義の面前に引出され、苦痛を長引かせるため錆び刀で鋸挽きによって斬首された<ref>『陸奥話記』の述べる所では、「将軍深悪之故以鈍刀漸斬其首」とある。</ref>。
 
合戦は簡単に決着がつかず天喜4年(1056年)戦いのさ中に頼義の任期が切れたが、新任の国司は合戦の事を聞いて赴任しない、頼義は重任となって合戦を続けた。おりから、戦地では凶作で兵糧が乏しく中央政府からの応援も少なく軍兵の離脱で苦戦を余儀なくされていた、一方安倍方も頼時が流れ矢により戦死するが、経清を中心に安倍貞任を守り立て一族の結合はますます強く一時は頼義をたった7騎のみで敗走をさせたこともあった。
頼義は奥羽に踏みとどまり4年半のこう着の後、頼義は、安倍氏と同じ俘囚の長であった[[出羽]][[仙北]]の[[出羽清原氏|清原氏]]に多くの財宝を送って援兵を求め、前九年の役は清原氏の協力で前九年の役は厨川の戦いを最後に終結し、安倍氏は滅亡した。{{要出典範囲|源頼義の苦戦の一因として徴税の札(白符)に象徴されるような経清の計略経済力による部分が多かった推測されころや計略があり<ref>菅野円蔵著「大鳥城記」山川出版1970年刊</ref>、そのためもあり}}頼義の恨みが殊のほか深く、経清は捕縛された後、頼義の面前に引出され、苦痛を長引かせるため錆び刀で鋸挽きによって斬首された<ref>『陸奥話記』の述べる所では、「将軍深悪之故以鈍刀漸斬其首」とある。</ref>。
経清亡き後、妻は七歳の遺児[[藤原清衡|清衡]]を連れ、前九年の役で敵対した[[清原武貞]]と再婚。清衡は[[後三年の役]]の後に清原の地を治め姓も実父の藤原姓に戻し[[奥州藤原氏]]の祖となる。
 
== 脚注 ==
<references />