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== 生涯 ==
メディチ家の侍医の子として生まれ、[[コジモ・デ・メディチ]](1389年 - 1464年)に才能を見出されて、ラテン語・ギリシャ語・ラテン語を学ぶ。コジモが創立した私的なサークル、[[プラトン・アカデミー]]の中心人物になり、同サークルの活動により[[アンジェロ・ポリツィアーノ|ポリツィアーノ]]、[[ピコ・デラ・ミランドラ]]らに直接的に影響を与えた。
 
[[中世]]ヨーロッパでは[[スコラ学]]を介してのなかで[[アリストテレス]]は知られていたものの、[[プラトン]]については(『[[ティマイオス]]』などを例外として)ほとんどあまり知られていなかった。[[フィレンツェ公会議]]などを契機に[[東ローマ帝国]]の学者からなどを介してプラトンなどのギリシャ文献が伝わり、その中からフィチーノはプラトン全集をラテン語に翻訳して出版した。フィチーノの訳業はルネサンス期の新プラトン主義([[ネオプラトニズム]])隆盛の元になった。
 
主な著作として『プラトン神学』 (''Theologia Platonica'', 1474) 、『愛について』 (''De Amore'', 1475)などがある。『愛について』は、プラトン『[[饗宴]]』の注釈書の形をとっており、そこで使われたアモル・プラトニクスという言葉が[[プラトニック・ラブ]](精神的な愛)の元になったという。ただし、現在でのプラトニック・ラブの概念とはかけ離れたものであった。
厳格なキリスト教の立場からは異端ともみなされかねない思想であったが、フィチーノ自身は神話や[[魔術]]、プラトン哲学は[[キリスト教]]と一致するものと考えており、[[1473年]]には[[司祭]]に[[叙階]]された。また、[[1498年]]、[[ジロラモ・サヴォナローラ|サヴォナローラ]]を[[反キリスト]]として[[ローマ教皇庁]]に告発している。
 
1499年、フィレンツェ近郊のカレッジで死去。彼の功績は[[サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂]]に飾られた胸像とともに讃えられている。これは彼が同大聖堂の参事会員だったことも大きいであろう
 
近年はルネサンスの魔術思想、[[神秘思想]]の面でも注目されている。
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