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F1デビュー戦 = [[2003年]][[オーストラリアグランプリ|2003年オーストラリアGP]] |
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最終戦 = [[2005年]][[中国グランプリ|2005年中国GP]] |
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'''アントニオ・ピッツォニア'''({{lang|pt|Antonio Pizzonia}}, [[1980年]][[9月11日]] - )は、[[ブラジル]]人の[[自動車レーサー]]。
 
他の多くのブラジル人ドライバーとは異なり、[[サンパウロ]]や[[リオ・デ・ジャネイロ|リオ]]といった南部の大都市出身ではなく、北部熱帯雨林地帯の[[アマゾナス州]]出身であることから'''ジャングル・ボーイ'''と呼ばれている。もっとも、ピッツォニアの出身地[[マナウス]]は[[アマゾン熱帯雨林]]に囲まれた陸の孤島であることはたしかだが、[[アマゾン川]]に面した大[[港湾]][[都市]]である。
 
==プロフィール==
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2004年の[[アメリカグランプリ|アメリカGP]]でレギュラードライバーの[[ラルフ・シューマッハ]]が怪我により長期欠場を余儀なくされると、[[フランスグランプリ|フランスGP]]とイギリスGPではジェネが代役を務めたが、今一つの走りに止まった為、[[ドイツグランプリ|ドイツGP]]からの4戦ではピッツォニアがその座に収まった。ピッツォニアはこのチャンスを生かし、リタイアとなった[[ベルギーグランプリ|ベルギーGP]]を除く3レースで7位に入り、チームのコンストラクターズポイント獲得に貢献した。
 
[[2005年]]シーズンを迎えるにあたり、ウィリアムズは、ジャガーから移籍してきたマーク・ウェバーのチームメイトに、当初は[[B・A・R|B・A・Rホンダ]]の[[ジェンソン・バトン]]を据えることを目論んでいたが、契約承認委員会の決定でそれを断念せざるを得なくなると、ピッツォニアと[[ジョーダン・グランプリ|ジョーダン]]の[[ニック・ハイドフェルド]]の間のオーディションで決定することとした。[[フランク・ウイリアムズ]]自身は、以前よりピッツォニアの能力を買っており、レギュラーシートに収まるものと思われていたが、土壇場になって、{{要出典範囲|エンジンを供給しているパートナーの[[BMW]]の意向もあり、|date=2010年11月}}ハイドフェルドにレギュラーシートを奪われてしまう「悲運」を味わうこととなった。
 
2005年の[[イタリアグランプリ|イタリアGP]]前の[[モンツァ・サーキット|モンツァ]]・テストでのクラッシュの影響で、ハイドフェルドがイタリアGPの土曜セッション以降を欠場することになり、ピッツォニアが代役として1年ぶりにステアリングを握ることとなった。ピッツォニアは予選走行順の不利がありながらも堅実な走りを見せ、またも7位入賞を果たした。この走りと、連戦となることを考慮し、次戦の[[ベルギーグランプリ|ベルギーGP]]でも代役を務めたが、ハイドフェルドが復帰を目指したトレーニング中に再度負傷したことから、つづく[[ブラジルグランプリ|ブラジルGP]]以降のシーズン残り3戦でも代役を務めることになった。
 
[[2006年]]についてハイドフェル抜けウィリアムズを去っが、このシートを[[ニコ・ロズベルグ]]との間で争うと言われていた、結局ロスベルクがシートを獲得するとピッツォニアはチームを離脱した。
その後、[[チャンプカー]]でレギュラーシート(チーム:Rocketsports Racing)を獲得。シリーズポイントランキングは18位であった。