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Nhitfukhak (会話 | 投稿記録)
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新しい自由党の事実上の指導者となった星亨は[[第2次山縣内閣]]に対して、不公正な地価の修正や党員の入閣などを条件に地租増徴を認めると申し入れた。これによって地租増徴は実現したものの、これに対して[[山縣有朋]]は掌を返したかのように文官任用令を改正して自由派憲政党との協定とは正反対に政府からの政党の排除を行った。これに激怒した星は野党に転じて山縣を攻撃する一方で、政治への意欲を失いつつあった板垣退助に代わって伊藤博文を党首に掲げる構想を打ち立てるが、伊藤からも拒絶された。だが程なく、拒絶の理由が、伊藤が既に「伊藤新党」の準備を進めているからであることを知った星は、憲政党を解党して「伊藤新党」に党ごと合流することを画策する。1900年9月13日、星の主導で憲政党の解党が決議され、その議員のほとんどが2日後の[[立憲政友会]]結成に合流した。梯子を外された形となった板垣退助の政治生命は、これによって事実上終わった。
 
また、かつて熱心な[[自由民権運動]]家だった[[萬朝報]]記者[[幸徳秋水]]はこれを嘆き、立憲政友会結成日の萬朝報に「自由党を祭る文」と題した論文を発表、「'''嗚呼、自由党死すや'''」と書き、批判した。
 
== 関連項目 ==