「青木勇人 (野球)」の版間の差分

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役職、プロ初先発
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|選手名 = 青木 勇人
|所属球団 = 広島東洋カープ
|役職 = コーチ
|背番号 = 93
|選手写真ファイル名 = HC-Hayato-Aoki.jpg
|写真サイズのコメント = 2008年6月27日 = 275px阪神甲子園球場
|写真のコメント = [[2008年]][[6月27日]]阪神甲子園球場
|国籍 = {{JPN}}
|出身地 = [[東京都]][[江戸川区]]
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== 来歴 ==
幼少期は[[読売ジャイアンツ|巨人]]ファンで、[[桑田真澄]]、[[斎藤雅樹]]、[[原辰徳]]らに憧れていた。江戸川区立上一色南小学校1年から野球を始め、中学時代も軟式野球部に所属し、[[遊撃手|ショート]]を守っていた。
江戸川区立上一色南小学校1年から野球を始め、中学時代も軟式野球部に所属し、[[遊撃手|ショート]]を守っていた。
 
一般入学で[[修徳学園中学校・修徳高等学校|修徳高等学校]]に進学し、硬式野球部に入部したが、本人と推薦組の選手達との間にある待遇の差に、1ほどで退部。
 
一時は「野球をやめよう」とまで思ったが、軟式野球部の監督に誘われて、軟式に転向。エースとして活躍し、3年時は[[全国高等学校軟式野球選手権大会]]でベスト8に進出。
 
一般入試で進学した[[同志社大学]]では[[準硬式野球]]部に所属。1年時に[[全日本大学準硬式野球選手権大会]]では、優勝を果たす。準硬式の関西6大学リーグでは通算28勝、全公式戦39勝を挙げた。
 
1999年、[[1999年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト会議]]で[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]から6位指名を受けて入団。
 
ドラフト6巡目と下位指名ながら、1年目の[[{{by|2000年]]}}から17試合に登板して防御率2.60の結果を残した。[[{{by|2001年]]}}にはさらに登板数を伸ばし、大事な場面での登板も増え、46試合で防御率2.96、プロ初勝利を含む4勝を記録した。[[{{by|2002年]]}}も36試合に登板した。3年目までは126イニングで四死球は32とかなり少なく、主力投手として活躍した。
 
[[2002年]]シーズン中に肩を故障。[[{{by|2003年]]}}に復帰するも、対[[大阪近鉄バファローズ]]戦にて[[中村紀洋]]に死球を与えた、青木が帽子に手をやることもなかったため、そのことに激高した中村のチームメイト[[タフィ・ローズ]]に突き飛ばされ、[[外傷性頸部症候群|むち打ち症]]になってしまう。それによる二軍降格以降は、思い切りの良さが消え、また故障もあって低迷が続いた。これ以降3年連続防御率10点台と大不振に陥った。
 
[[{{by|2006年]]}}3月23日、[[福地寿樹]]との交換トレードで[[広島東洋カープ]]に移籍した。2006年は広島で8試合だけの登板だったが、被安打4で[[防御率]]は0.00と安定していた。
 
[[{{by|2007年]]}}、[[梅津智弘]]の不振、新人の[[上野弘文]]の経験不足もあり、8月から[[リリーフ#中継ぎ|セットアッパー]]として活躍し、防御率3.00、15ホールドを挙げた。四球の少ないピッチングで防御率は途中まで1点台と、[[横山竜士]]と共に安定していたが、終盤打ち込まれるケースが多かった。9月1日、チームメイトの[[前田智徳]]の通算2000本安打達成試合において1/3回登板ながら5年ぶりの勝利を挙げた。
 
[[{{by|2008年]]}}は前年から被打率が大きく悪化し11試合の登板に終わったが、[[{{by|2009年]]}}は再び出場機会を増やした。[[{{by|2010年]]}}は6試合の出場に留まり、[[10月3日]]に球団から戦力外通告を受けた。引退後は同球団の3軍投手コーチを務める<ref>[http://www.carp.co.jp/news10/s-070.html 2011年度 二軍、三軍コーチングスタッフについて] 2010年11月25日</ref>。
 
== プレースタイル ==
高校では[[軟式野球|軟式]]、大学では[[準硬式野球|準硬式]]と、[[硬式野球]]の経験が全く無いにもかかわらず[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]にドラフト指名された異色の選手。適応力と抜群の野球センスを発揮し、早い時期から中継ぎとして頭角を現した。俊足であり、投手としての守備力が高いことでも知られ
 
[[サイドスロー]]から、平均140km/h前後の速球と多彩な変化球を低めに集めるスタイル。[[スライダー_(球種)|スライダー]]、[[シュート (球種)|シュート]]、[[シンカー (球種)|シンカー]]などを投げ分ける器用さが持ち味で、コントロールも非常に良い。初球から勝負を意識し、どんどん攻めるスタイルという事もあり、2007年は[[四死球]]が1試合平均0.82という少ない数字であった。
 
「スピードがない分、打者からボールの出所を見にくくするため」、2006年は当時の2軍投手コーチだった[[石井丈裕]]とフォームを研究。西武時代と比べると腕の位置がだいぶ下がった。
 
[[小林幹英]]からは「いつも変わらない投球ができる」という高い評価を受けてい
 
== 詳細情報 ==
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|210||1||0||0||0||9||6||1||22||.600||993||231.2||262||25||49||8||11||116||3||0||114||107||4.16||1.34
|}
* 2010年度シーズン終了時
 
=== 背番号 ===
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=== 個人記録 ===
* 初登板:2000年7月12日、対[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]16回戦([[西武D)8-0 ドーム]])、9回より登板1回無失点
* 初セーブ先発:2000年87614オリ、対[[千葉ロクステマリーンズ]]16回戦(神戸)4-1 7回より登板[[千葉マリンスタジアム]])5 1/3回3失点で敗戦投手
* 初勝利:2001セーブ:200068246、対[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]18回戦(ナゴヤD)8-[[神戸総合運動公園野球場|グリーンスタジアム神戸]])、7 9回より登板3回無失点
* 初勝利:2001年6月24日、対オリックス・ブルーウェーブ15回戦([[ナゴヤドーム]])、9回より登板し3回無失点
 
=== その他 ===
* 2000年8月7日の[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]19回(グリーンスタジアム神戸)で[[代打]]・[[松坂大輔]]が2点適時打を放った後、[[代走]]として起用されている。野手を使い果たしていたためで、松坂とともに代打の候補でもあった。
* 2010年4月17日の[[中日ドラゴンズ]]5回戦([[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島|マツダ]])でプロ初打席。登録上は右打ちであったが、この時は左打席に立った(結果はセンターフライ)。
 
== 脚注 ==
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{{西武ライオンズ1999年ドラフト指名選手}}
 
{{DEFAULTSORT:あおき はやと やきゆうせんしゆ}}
 
[[Category:日本の野球選手]]
[[Category:埼玉西武ライオンズ及びその前身球団の選手]]