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'''考烈王'''(こうれつおう、? - [[紀元前238年]]、在位:[[紀元前262年]] - 紀元前238年)は、[[中国]][[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の[[楚 (春秋)|楚]]の王。[[姓]]は'''羋'''、[[氏]]は'''熊'''。[[諱]]は'''完'''(『[[史記]]』「春申君伝」より。「楚世家」では'''元'''と記される)。[[懐王]]の孫、[[頃襄王 (楚)|頃襄王]]の子。[[幽王 (楚)|幽王]]、[[哀王 (楚)|哀王猶]]、[[負芻]](楚の最後の王)らの父。
[[紀元前272年]]に楚が[[秦]]と和平を結んだ時、人質として秦に入った。前263年、父の頃襄王が病に倒れると、太子
[[紀元前259年]]秦が[[趙]]を攻め寄せてきたとき、趙の[[公子]]・[[平原君]](趙勝)と講和を結ぶ対談をしたが、考烈王は前に秦に侵攻を受けたこともあり、渋って講和がまとまらなかった。これに業を煮やした平原君の[[食客]]の[[毛遂]]は剣を帯びて、考烈王の目前に向かい「秦の[[白起]]は楚の首都を蹂躙して楚の父祖を辱めました。今回の合従は趙のためではなく、楚のためであります」と述べ、毛遂の働きかけで、楚と趙の盟約が成立した。
紀元前238年、側室の兄の[[李園]]に後事を託して没した。
{{先代次代|[[楚 (春秋)|楚]]の[[中国帝王一覧|王]]|前262年 - 前238年|[[頃襄王 (楚)|頃襄王]]|[[幽王 (楚)|幽王]]}}
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