「カタルーニャ君主国」の版間の差分

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=== 中世以後のカタルーニャ ===
[[ファイル:Casa_generalitat_web.jpg|left|200px|thumb|現在のジャナラリター庁舎]]
[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]女王[[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|イサベル1世]]とアラゴン王[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド2世]]の結婚によって、イベリア半島のキリスト教王国が([[ポルトガル王国]]、および1513年に併合された[[ナバラ王国]]を除いて)統合された1492年、最後まで残っていた[[グラナダ]]周辺の[[アンダルス|アル=アンダルス]]の残党が征服され、レコンキスタが完了した。そして同時期には[[スペインによるアメリカ大陸の植民地化|アメリカ大陸進出]]が始まった。政治的権力はアラゴンからカスティーリャへ移り始め、その結果としてカタルーニャは[[スペイン帝国]]の一部となり、世界征服のためヨーロッパで頻発する戦争に従事した。
 
長期間、カタルーニャは独自の法と憲法を維持し続けた。しかしこの法的・行政的特権は、封建国家から近代国家へと移り変わり、[[スペイン継承戦争]]の結果カタルーニャが[[スペイン・ブルボン朝|ブルボン家]]に最終的に敗退させられるまで、可能な限りカタルーニャから権力をもぎ取ろうとするスペイン王との格闘が続き、徐々に浸食されていった。続く数世紀以上の間、カタルーニャは、スペインでのさらなる中央集権化へ結びつく連戦で、全般的に敗者の側であった。[[フェリペ4世 (スペイン王)|フェリペ4世]]が締結した1659年の[[ピレネー条約]]後、[[ルシヨン|ルサリョー]]、クンフレン、ヴァリャスピー、[[サルダーニャ]]北部がフランスへ割譲された。近年のこの一帯は北カタルーニャ(フランス語名:[[ルシヨン]])として知られている。