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[[大化]]2年([[646年]])に初めて置かれた後、[[延暦]]14年([[795年]])に一旦廃絶された<ref>『[[日本紀略]]』延暦14年[[8月15日_(旧暦)|8月15日]](795年[[10月6日]])条</ref>。その後、[[平安京|平安遷都]]にともなう防衛線再構築などもあり、[[斉衡]]4年([[857年]])に上請によって同じ[[近江国|近江国内]]の大石および龍花とともに再び関が設置された。[[寛平]]7年[[12月3日_(旧暦)|12月3日]]([[895年]][[12月26日]])の[[太政官符]]では「[[五位]]以上及孫王」が[[畿内]]を出ることを禁じており、この中で会坂関を畿内の東端と定義している。関はやがて旅人の休憩所としての役割なども果すようになり、[[天禄]]元年([[970年]])には[[藤原道綱母]]が逢坂越を通った際に休息した事が[[蜻蛉日記]]に記されている。
 
逢坂関は[[鎌倉時代]]以降も京都の東の要衝として機能し、[[南北朝時代_(日本)|南北朝時代]]以降には[[園城寺]]が支配して[[関銭]]が徴収されるようになった。しかし、[[貞治]]6年([[1367年]])に園城寺の衆徒が[[南禅寺]]所轄の関を破却したため、[[侍所]]頭人の[[今川貞世]]によって四宮川原関や松坂峠関(ともに現・[[京都市]][[山科区]])とともに焼払われた<ref>「師守記」同年[[6月26日_(旧暦)|6月26日]]条</ref>。その後、逢坂関は再設されたが、[[寛正]]元年([[1460年]])に[[伊勢神宮]]造替のために[[大津]]に新関が設置された際には、大谷・逢坂の両関が一時廃されており<ref>『三井続燈記』</ref>、経済上の理由から[[室町幕府]]が園城寺の関を支配下に置こうとしたと考えられる。なおその後も逢坂関は存在し、[[応永]]25年([[1418年]])に[[足利義持]]が伊勢神宮に参詣した際に通過したとの記録がある。
 
==文学への登場==