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新富座の座元・[[守田勘彌|十二代目守田勘彌]]には先見の明があり、明治9年 ([[1876年]]) 9月に新富座が類焼により全焼すると、その場は仮小屋でしのぎ、その間に巨額の借金をして、明治11年 ([[1878年]]) 6月には西洋式の大劇場・[[新富座]]を開場した。杮落としの来賓に政府高官や各国[[特命全権公使|公使]]を招いて盛大な開場式を挙行するというのも前代未聞だったが、なによりも新富座は当時最大の興行施設で<ref>幕末の中村座の舞台間口は6[[間]](約11メートル)、明治11年 (1878) 落成の新富座は8間(約15メートル)、明治22年 (1889) 落成の歌舞伎座は13間(約24メートル)あった。</ref>、しかも[[ガス灯]]による照明器具を備えてそれまでできなかった夜間上演を可能した<ref>それまでの芝居小屋は天窓から明かりをとっていたため、上演は早朝から日没までと決っていた。明治7年 (1874) 1月に刷られた中村座の番付(演目表)は上演時間帯を明記したものの初見だが、そこにも「午前七時より相始め、午後五時迄」と書かれている。</ref>、画期的な近代劇場だった。以後この新富座で専属役者の[[市川團十郎 (9代目)|九代目團十郎]]・[[尾上菊五郎 (5代目)|五代目菊五郎]]・[[市川左團次 (初代)|初代左團次]]の三名優が芸を競いあい、ここに「[[團菊左時代]]」(だんぎくさ じだい)と呼ばれる歌舞伎の黄金時代が幕を開けた。
 
明治22年 ([[1889年]])、[[福地源一郎]]らが[[演劇改良運動]]の一貫として推進していた新たな歌舞伎の殿堂・[[歌舞伎座]]の建設が始まる。しかし守田はこれを良しとせず<ref>歌舞伎座はかつての芝居町だった木挽町4丁目に建設されたが、この界隈はそもそも森田座の[[本貫]]であること、歌舞伎座は当時最大だった新富座よりもさらに大きい劇場となったこと、新富座がガス灯照明なのに対し歌舞伎座は当時最新の技術だった[http://commons.wikimedia.org/wiki/Image:Kabukiza_inside_1893.jpg 電灯を使用]していたこと、[[法人]]として新設された歌舞伎座には従前の座と座の間の因習が通じないことなど、守田にとって歌舞伎座は面白くないことばかりだった。</ref>、中村座・市村座・千歳座<ref name=CHITOSE />と連繋して歌舞伎座が興行できないよう画策した。これは四座がむこう5年間にわたって團菊左をはじめ、[[中村芝翫_(4代目)|大芝翫]]・[[市村羽左衛門 (15代目)|家橘]]・[[中村宗十郎|宗十郎]]・[[澤村源之助 (4代目)|源之助]]など当時の人気役者を順繰りで使って出ずっぱりにし、その他の劇場に出る余裕がないようにしてしまうという協定で、これを'''四座同盟'''といった。これが功を奏して、歌舞伎座は完成後もいっこうに演目が立てられず立ち往生してしまう。福地はついに折れて、四座側に巨額の見舞金を支払うことで妥協が成立<ref>このとき守田に支払われたのは2万円で、これは劇場が一つ建つほどの大金だった。歌舞伎座の総工費が3万5千円だった時代のことである。</ref>、歌舞伎座はやっと開場できるはこびなった。
 
守田はこののち、一時は経営陣の内紛で揉めにも揉めた歌舞伎座に招かれてその経営にもあたるなど、團菊左時代を通じて歌舞伎界の中心に居続けたが、やがて團菊左が衰えて舞台を去ると新富座も衰退した。代わって表舞台に躍り出たのは歌舞伎座の内紛で飛び出した[[田村成義]]で、明治41年 ([[1908年]]) に市村座の経営権を取得すると、ここで[[尾上菊五郎 (6代目)|六代目菊五郎]]や[[中村吉右衛門 (初代)|初代吉右衛門]]の若手を育て、この二人が[[大正]]に入って「[[菊吉時代]]」(きくきち じだい)と呼ばれる第二の歌舞伎全盛期を築く。菊吉はもっぱら二長町の市村座に出ていたので、この一時期を「[[二長町時代]]」(にちょうまち じだい)ともいう。これが江戸三座の放った最後の輝きだった。やがて市村座と新富座は歌舞伎座とともに関西系の[[松竹|松竹合名会社]]に買収され、その独自性を失っていく。