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'''アドリアーノ・パナッタ'''('''Adriano Panatta''', [[1950年]][[7月9日]] - )は、[[イタリア]]・[[ローマ]]出身の男子プロ[[テニス]]選手。[[1976年]]の[[全仏オープン]]男子シングルス優勝者である。シングルス自己最高ランキングは4位。[[男子プロテニス協会|ATP]]ツアーでシングルス9勝、ダブルス17勝を挙げた。身長183cm、体重81kg、右利き。
 
パナッタは[[1970年]]から男子テニス国別対抗戦・[[デビスカップ]]の[[イタリア]]代表選手となり、[[1983年]]まで14年連続でデ杯に出場した。[[1972年]]の[[1972年全仏オープンテニス|全仏オープン]]1回戦で、パナッタは[[ルーマニア]]の[[イリ・ナスターゼ]]を 1-6, 9-7, 6-4, 6-3 で破り、世界的な知名度を獲得した。この年のデビスカップで、パナッタは当地の大先輩である[[ニコラ・ピエトランジェリ]]とダブルスを組む貴重な機会を得た。[[1973年]]5月、地元[[イタリア]]・[[フィレンツェ]]の大会で男子ツアーのダブルスに初優勝し、翌週の[[イギリス]]・ボーンマス大会でシングルス初優勝を果たす。最初期のパナッタは、単複ともナスターゼとの対戦が多かった。
 
[[1976年]]の[[1976年全仏オープンテニス|全仏オープン]]で、パナッタは準々決勝で[[ビョルン・ボルグ]]の大会3連覇を阻止した後、決勝で[[ハロルド・ソロモン]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]])を 6-1, 6-4, 4-6, 7-6 で破り、[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]初優勝を決めた。[[イタリア]]人のテニス選手による4大大会男子シングルス優勝は、[[1959年全仏テニス選手権 (テニス)|1959年]]と[[1960年全仏テニス選手権 (テニス)|1960年]]に全仏選手権(当時の名称)2連覇を達成した[[ニコラ・ピエトランジェリ]]以来16年ぶりの快挙であった。このパナッタの全仏優勝を最後に、男女を通じてイタリア人の4大大会シングルス優勝者は出現していない。全仏優勝を果たした[[1976年]]、パナッタは[[デビスカップ]]でもイタリア・チームの初優勝に貢献した。
 
その後、デビスカップでは[[1977年]]・[[1979年]]・[[1980年]]に準優勝があり、2度目の優勝には届かなかった。他の4大大会では、[[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]では[[1979年ウィンブルドン選手権|1979年]]のベスト8、[[全米オープン (テニス)|全米オープン]]では[[1978年全米オープン (テニス)|1978年]]の4回戦進出が自己最高成績である。パナッタはデ杯のイタリア代表選手として史上2位となる「64勝36敗」の記録を残した後、[[1984年]]9月に地元[[イタリア]]・[[パレルモ]]大会の男子ダブルス準優勝を最後に現役を退いた。
 
イタリア最大のテニス選手である[[ニコラ・ピエトランジェリ]]は、[[1959年全仏テニス選手権 (テニス)|1959年]]と[[1960年全仏テニス選手権 (テニス)|1960年]]に全仏男子シングルスで大会2連覇を達成し、[[1986年]]に当地のテニス選手として最初の[[国際テニス殿堂]]入りを果たしている。ピエトランジェリは[[デビスカップ]]でも[[1954年]]から[[1972年]]まで出場したが(通算成績120勝44敗)、彼のデ杯最高成績は[[1960年]]と[[1961年]]の2年連続準優勝であったため、[[1976年]]にイタリアをデ杯初優勝に導いたパナッタへの評価も高い。
== 外部リンク ==
* {{ATP|id=P059|name=アドリアーノ・パナッタ}}
* [http://www.daviscup.com/teams/player.asp?player={{Davis Cup|10002304 デビスカ|アドリアーノ・パナプ成績表]タ}} (参考:イタリア代表選手の [http://www.daviscup.com/en/teams/playerwinlossteam/profile.aspaspx?teamid=ITA 成績表])
{{全仏オープン男子シングルス優勝者}}