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'''フランク・パーカー'''('''Frank Parker''', [[1916年]][[1月31日]] - [[1997年]][[7月24日]])は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ウィスコンシン州]][[ミルウォーキー]]出身の男子[[テニス]]選手。主に[[1940年代]]に活躍し、[[全米オープン (テニス)|全米選手権]]で[[1944年]]・[[1945年]]、[[全仏オープン|全仏選手権]]で[[1948年]]・[[1949年]]にそれぞれ男子シングルス2連覇を達成した選手である。男子ダブルスでも3勝があり、[[1949年]]には[[パンチョ・ゴンザレス]]とパートナーを組んで全仏選手権・[[ウィンブルドン選手権]]の4大大会2連勝を記録した。両親が[[ポーランド]]人であったことから、カトリック教会の洗礼名として ''Franciszek Andrzej Paikowski'' (フランチシェク・アンジェイ・パイコフスキ)と名づけられたが、英語の読み方で ''Frank Andrew Parker'' (フランク・アンドリュー・パーカー)と名乗った。
 
パーカーのテニスは、バックサイド(右利きの選手の場合、テニスコートの左側)から放つグラウンド・ストロークをはじめ、正確なサービスとボール・コントロールなど、粘り強さと安定感を持ち味にした。身長174cm、体重66kgほどのすらりとした体格で、試合中に感情を表に出すことは少なかったという。彼は[[1932年]]から[[1949年]]まで、17年間「全米男子テニスランキング」のトップ10位以内を維持し、全米選手権で2連覇した[[1944年]]と[[1945年]]に全米1位の座についた。[[1948年全仏テニス選手権 (テニス)|全仏選手権]]で初優勝した[[1948年]]には、当時の世界ランキング1位に選ばれた。
 
フランク・パーカーは[[1932年]]、16歳の時に[[1932年全米テニス選手権 (テニス)|全米選手権]]初出場を果たし、[[ジョージ・ロット]]との3回戦まで勝ち進んだ。翌[[1933年全米テニス選手権 (テニス)|1933年]]、17歳のパーカーは[[フランク・シールズ]]とペアを組んで男子ダブルス決勝に初進出し、ロットと[[レスター・ストーフェン]]の組に敗れて準優勝になった。[[1937年]]から男子テニス国別対抗戦・[[デビスカップ]]のアメリカ代表選手に選ばれる。彼のデ杯デビュー戦となった「アメリカン・ゾーン」準決勝の対[[日本]]戦で、パーカーは[[山岸二郎]]と[[中野文照]]の両選手を圧倒した。[http://www.daviscup.com/tiesen/results/tie/details.aspaspx?tietieId=10004601] アメリカ・チームは順調に勝ち進み、[[1933年]]からデ杯4連覇中だった[[イギリス]]と「ワールドグループ」決勝で対戦した。この決勝戦でパーカーと[[ドン・バッジ]]、[[ジーン・マコ]]の3人が「4勝1敗」でアメリカ・チームに優勝をもたらし、イギリスのデ杯5連覇を阻止した。[http://www.daviscup.com/tiesen/results/tie/details.aspaspx?tietieId=10003716] アメリカのデ杯奪還に貢献した年は、[[1937年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン選手権]]でも初出場でベスト4進出があったが、これは彼が戦前に出場した唯一の海外試合である。
 
[[1939年]]のデビスカップ決勝は、[[第二次世界大戦|第2次世界大戦]]勃発のただ中で行われた。9月2日-5日に行われた[[オーストラリア]]との決勝戦で、先に[[ボビー・リッグス]]とパーカーが第1・第2試合のシングルス戦を取ったが、第3試合のダブルス戦で、オーストラリアの[[エイドリアン・クイスト]]と[[ジョン・ブロムウィッチ]]組がアメリカペアの[[ジョー・ハント]]と[[ジャック・クレーマー]]組に 5-7, 6-2, 7-5, 6-2 で勝ち、ここで流れが変わった。クイストがリッグスを第4試合で破り、決勝は最終第5試合にもつれたが、ここでパーカーがブロムウィッチに 0-6, 3-6, 1-6 で完敗したため、アメリカはオーストラリアに「2勝3敗」で逆転負けした。(第2次世界大戦の勃発は、[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]が[[ポーランド侵攻]]を開始した[[9月1日]]である。)世界大戦勃発により、デビスカップやウィンブルドン選手権などのテニス競技大会は開催中止となったが、[[全米オープン (テニス)|全米選手権]]だけは戦時中も続行された。パーカーは戦時中の全米選手権で、[[1943年全米テニス選手権 (テニス)|1943年]]の男子ダブルスと[[1944年全米テニス選手権 (テニス)|1944年]]・[[1945年全米テニス選手権 (テニス)|1945年]]の男子シングルスに優勝する。戦時中は[[アメリカ陸軍]]の空軍部軍曹として“''Sgt. Parker''”(パーカー軍曹:Sgt. = Sergeant の略)と呼ばれた。
 
戦時中の全米選手権で、パーカーは[[1942年全米テニス選手権 (テニス)|1942年]]に初めて男子シングルス決勝進出を決めた。最初のチャンスでは[[テッド・シュローダー]]に 6-8, 5-7, 6-3, 6-4, 2-6 で敗れ、ここで準優勝者になる。[[1943年全米テニス選手権 (テニス)|1943年]]には[[ジャック・クレーマー]]とペアを組み、男子ダブルスで初優勝した。[[1944年全米テニス選手権 (テニス)|1944年]]と[[1945年全米テニス選手権 (テニス)|1945年]]の男子シングルス決勝で、パーカーは2年連続で[[ビル・タルバート]]を破り、大会2連覇を達成した。戦時中のアメリカ男子テニス界では、どの選手も軍務に就きながら全米選手権に出場していたが、[[1943年全米テニス選手権 (テニス)|1943年]]の男子シングルス優勝者[[ジョー・ハント]]のように戦死した人もいた。[[1945年]]に第2次世界大戦が終結した後、パーカーは[[1947年全米テニス選手権 (テニス)|1947年]]に2年ぶり4度目の全米男子シングルス決勝に進出したが、最後はクレーマーに 6-4, 6-2, 1-6, 0-6, 3-6 の逆転で敗れ、全米男子決勝では「2勝2敗」で終わった。
 
[[1948年]]、フランク・パーカーは終戦後初めての海外遠征に出る。初出場の[[1948年全仏テニス選手権 (テニス)|全仏選手権]]で、パーカーは男子シングルス決勝で[[ヤロスラフ・ドロブニー]]([[チェコスロバキア]])を 6-4, 7-5, 5-7, 8-6 で破り、遠い[[フランス]]の地で初優勝を飾った。全仏選手権初優勝時の年齢「32歳4ヶ月」は、当時の男子シングルス最年長優勝記録であった。この年は[[1948年全米テニス選手権 (テニス)|全米選手権]]の男子ダブルスで[[テッド・シュローダー]]とペアを組み、[[ガードナー・ムロイ]]&[[ビル・タルバート]]組に敗れた準優勝がある。[[1949年]]の[[1949年全仏テニス選手権 (テニス)|全仏選手権]]で、パーカーは男子シングルス2連覇と男子ダブルス初優勝を決め、33歳4ヶ月で単複2冠を獲得した。男子ダブルスでペアを組んだ[[パンチョ・ゴンザレス]]とは、続く[[1949年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン選手権]]でも優勝し、2人は4大大会男子ダブルス2連勝を達成した。パーカーは自身唯一のウィンブルドン・タイトルを、ゴンザレスとのダブルスで獲得したのである。[[1949年全米テニス選手権 (テニス)|1949年全米選手権]]を最後に、パーカーは33歳で「プロテニス選手」に転向する。彼は17年間「全米テニスランキング」で10位以内を守り通し、アメリカ男子テニスの歴史に大きな足跡を残した。
 
[[1966年]]に[[国際テニス殿堂]]入り。[[1968年]]、52歳になったパーカーは19年ぶりに「[[1968年全米オープン (テニス)|全米オープン]]」への出場を決め、同大会の歴史を通じて最年長出場者の記録をつくった。本人の言葉によれば「新時代の“全米オープン”の一員になりたかったから、楽しむためにエントリーした」という。その試合では、1回戦で[[アーサー・アッシュ]]に 3-6, 2-6, 2-6 で敗れた。第2次世界大戦の前後をまたぎ、息の長いテニス経歴を築いたフランク・パーカーは、[[1997年]][[7月24日]]に[[カリフォルニア州]][[サンディエゴ]]にて81歳の生涯を閉じた。
== 4大大会優勝 ==
* [[全仏オープン|全仏選手権]] 男子シングルス:2勝(1948年・1949年)/男子ダブルス:1勝(1949年)
* [[ウィンブルドン選手権]] 男子ダブルス:1勝(1949年)
* [[全米オープン (テニス)|全米選手権]] 男子シングルス:2勝(1944年・1945年)/男子ダブルス:1勝(1943年) [男子シングルス準優勝2度:1942年・1947年/男子ダブルス準優勝2度:1933年・1948年]
 
 
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!年!!大会!!対戦相手!!試合結果
|-style="background: #CCF;"
| [[1944年]] || [[1944年全米テニス選手権 (テニス)|全米選手権]] || {{flagicon|United States}} [[ビル・タルバート]] || 6-4, 3-6, 6-3, 6-3
|-style="background: #CCF;"
| [[1945年]] || [[1945年全米テニス選手権 (テニス)|全米選手権]] || {{flagicon|United States}} [[ビル・タルバート]] || 14-12, 6-1, 6-2
|-style="background: #FC9;"
| [[1948年]] || [[1948年全仏テニス選手権 (テニス)|全仏選手権]] || {{flagicon|Czech Republic}} [[ヤロスラフ・ドロブニー]] || 6-4, 7-5, 5-7, 8-6
|-style="background: #FC9;"
| [[1949年]] || [[1949年全仏テニス選手権 (テニス)|全仏選手権]] || {{flagicon|United States}} [[バッジ・パティー]] || 6-3, 1-6, 6-1, 6-4
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