「本多忠寛 (神戸藩主)」の版間の差分

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'''本多 忠寛'''(ほんだ ただひろ)は、[[伊勢国|伊勢]][[神戸藩]]の第6代[[藩主]]。神戸藩本多家7代。'''忠廉'''(ただかど)とも言う。
 
文政10年(1827年)1月20日、第5代藩主・[[本多忠升]]の次男として神戸で生まれる。[[天保]]12年([[1841年]])9月20日、父の[[隠居]]により[[家督]]を継いで第6代藩主となる。[[江戸幕府]]の[[天保の改革]]における[[上知令]]で領地の差し替えを命じられそうになるが、[[水野忠邦]]が失脚したために取り消しとなった。
 
[[弘化]]元年([[1844年]])、一橋門番や日光祭祀奉行を、弘化4年([[1847年]])には[[大坂加番]]代を、[[嘉永]]2年([[1849年]])には竹橋門番を務めた。[[安政]]4年([[1857年]])4月26日、家督を養子の[[本多忠貫|忠貫]]に譲って隠居する。明治18年(1885年)12月20日に死去。享年59。
 
{{先代次代|[[神戸藩|本多氏(神戸藩6代)藩主]]|1841年 - 1857年|[[本多忠升]]|[[本多忠貫]]}}
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[[Category:江戸の大名]]
[[Category:譜代大名]]
[[Category:幕末の大名]]
[[Category:三重県の歴史]]
[[Category:1827年生]]