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'''藤原 兼子'''(ふじわら の けんし、[[久寿]]2年 ([[1155年]]) - [[寛喜]]元年[[8月16日 (旧暦)|8月16日]]([[1229年]])8[[9165]]))は、[[平安時代]]末期から[[鎌倉時代]]前期の公家女官。刑部卿[[藤原範兼]]の娘。通称は'''卿局'''。位階の昇進に応じて'''卿二位'''、'''卿三位'''とも。[[後鳥羽天皇]]の[[乳母]]。
 
同じく後鳥羽天皇の乳母である[[藤原範子]]は姉。範子と前夫の娘・[[源在子]]は後鳥羽天皇の妃となり[[土御門天皇]]を産む。叔父の[[藤原範季]](父範兼の養子になっているので義兄となる)は[[後白河天皇|後白河法皇]]の[[院近臣]]で、後鳥羽天皇即位の際には奔走している。範季の娘[[藤原重子]]は後鳥羽天皇の妃となり[[順徳天皇]]を産んでいる。
 
== 生涯 ==
父範兼は[[永万]]元年([[1185年]])に死去し、兼子ら子供達は幼くして残されたため、叔父範季に養育される。一門は後鳥羽天皇と関係が深く、兼子も乳母として仕えた。無名の女性であったが、後鳥羽天皇の信任が厚く、その成長と共に重用され、[[正治]]元年([[1199年]])、45歳で[[典侍]]となり、政治の表舞台に現れるようになる。独身であった兼子はこの頃に[[藤原宗頼]]と結婚している。
 
姉範子の夫である[[源通親]]は後鳥羽天皇の外戚として権勢を振るった。弟の[[藤原範光|範光]]は低い官位ながら後鳥羽天皇の近習として重用され、その権勢は通親と並び称されるほどであった。通親が後見する土御門天皇より、守成親王(のちの順徳天皇)を後鳥羽天皇が寵愛した事から、兼子・兼光姉弟と通親の間で対立も起こっている。
 
[[建仁]]2年([[1202年]])、通親が死去し、後鳥羽上皇の独裁が強まると共に兼子・兼光は側近としていっそう重用され、権勢を誇った。[[建仁]]3年([[1203年]])正月の除目について、『[[明月記]]』によれば、前年までは通親が実権を握っていたが、今年はすべて上皇の意志で行われ、通親に代わって権門女房(兼子)がとりしきっていたという。
 
夫宗頼は結婚から3年後の建仁3年(1203年)正月に死去し、権勢を誇る兼子に通親の弟の[[源通資]]など複数の男が近づき、兼子は同年のうちに太政大臣[[藤原頼実]]と再婚した。
 
[[建保]]6年([[1218年]])正月、[[鎌倉幕府]]の将軍[[源実朝]]の後継問題を相談するため、熊野詣と称して上洛した[[北条政子]]と対面する。兼子の推挙により、政子は出家後の女性としては異例の従三位に叙せられた。兼子は養育していた[[頼仁親王]]を次期将軍に押し、政子も実朝の妻[[坊門信子]]との繋がりもある親王を実朝の後継者とする案に賛成し、二人の間で約束が交わされた。この年の11月、兼子の後押しを受ける政子は従二位に昇った。
 
[[承久]]元年([[1219年]])、実朝が暗殺され、幕府と後鳥羽上皇の対立が深まると、親王の鎌倉下向を拒否する上皇は、兼子を遠ざけるようになる。最終的には[[西園寺公経]]の奔走により、[[摂関]]家の子息[[藤原頼経]]が次期将軍として鎌倉へ下向した。2年後の[[承久]]3年([[1221年]])、幕府打倒の兵を挙げた後鳥羽上皇によって[[承久の乱]]が起こる。上皇は幕府軍に大敗し、倒幕側の中心となった兼子の一族も処刑されるなど連座を受け、後鳥羽上皇・順徳上皇は島流しとなった。
 
老年の兼子は都に留まり、乱後8年を生きながらえた。その間、[[延暦寺]]の僧と所領の事で争い、延暦寺によって京追放、所領没収の訴えを受けたり、倉に強盗が入って権勢の間に蓄えた財物を奪われ、警護の兵が殺害されるなど憂き目にあっている。
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*[[角田文衞]] 『平家後抄〈上〉落日後の平家』 [[講談社学術文庫]] 2000年(1981年刊行)。
 
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[[Category:鎌倉時代の人物]]