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'''長岡 謙吉'''('''ながおか けんきち'''、[[天保]]4年([[1834年]]) - [[明治]]5年[[6月11日 (旧暦)|6月11日]]([[1872年]]
[[高知城]]下の浦戸町の医師・今井孝順の息子として生まれる。幼少期は[[河田小龍]]のもとで晩学に励んだ。その後は[[江戸]]や[[大坂]]に遊学して、医学や文学を学んだ。[[1859年]]には家業の医師を継ぐために、[[長崎]]にいる[[シーボルト]]から医学を学ぶが、このときに藩から[[キリスト教]]に傾倒したと疑われて帰国を命じられ、処罰として長岡郡鹿児村への蟄居を命じられた。
その後に罪を許されたが、やがて脱藩して長崎に赴き、[[坂本竜馬]]のもとで[[海援隊]]に参加した。竜馬は長岡の才能を高く評価し、海援隊の通信文書の作成など、事務処理のほとんどは長岡の一手に任されていたという。[[1867年]]、夕顔丸に坂本竜馬や[[後藤象二郎]]らと同船し、大政奉還後の竜馬の構想をまとめた「[[船中八策]]」を起草した。また、長崎におけるキリシタン問題を論考してまとめ上げた「閉愁録」を出版している。
同年、竜馬が暗殺されると、海援隊の二代目隊長に選ばれた。[[明治維新]]後は三河県知事、[[大蔵省]]、[[工部省]]などに勤務したが、1872年に東京にて若くして死去した。享年39
「船中八策」と関連する「藩論」の著者でもある。
[[Category:幕末維新側人物|なかおかけんきち]]
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