「土佐光茂」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
官歴情報追加
1行目:
'''土佐 光茂'''(とさ みつもち、[[明応]]5年([[1496年]])? - 没年不詳)は、[[室町時代]]後期から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]にかけての[[大和絵]]の[[土佐派]]の[[絵師]]。[[土佐光信]]の子。宮廷絵所預、[[近衛府|左近将監]]、[[刑部省|刑部大輔]]、位階は[[正五位|正五位下土佐光信]]の子。実子に[[土佐光元]]土佐派の跡を継いだ[[土佐光吉]]は次子とも弟子とも言われるが、土佐家資料」(』<ref>『土佐家資料』[[京都市立芸術大学]]像)蔵</ref>には光茂の没年や享年戒名、光元の戦死場所などが正しく伝えられていない点から、門人説が有力である。[[官位]]は[[正五位|正五位下]]・刑部大輔
 
==生涯==
『[[地下家伝]]』に収録された系図の注釈によると明応5年の誕生とされ、これが正しければ光信60歳代の子になる。光信は[[狩野元信]]に娘を嫁がせているが、これは老い先不安な光信が、元信に幼い光茂の後見を託す意味があったと考えられる。[[大永]]2年([[1522年]])から[[永禄]]12年([[1569年]])までの記録が残っており、大永3年([[1523年]])には既に光信の跡を継ぎ絵所預に補任され、初めは[[近衛府|左近将監]]を経て、[[天文 (享禄]]号)年([[1528年]])[[従五位|天文従五位上]]、享禄5年([[1532年]])正五位下・刑部大輔にる。
 
[[天文 (元号)|天文]]19年([[1550年]])5月初めに[[近江国|近江]][[穴太 (大津市)|穴太]]で客死した[[足利義晴]]の寿像を描くために下向。この時の体験が、2年後の天文21年([[1552年]])から[[弘治 (日本)|弘治]]3年([[1557年]])の間に描かれた[[大徳寺]][[塔頭]][[瑞峯院]]の「堅田図」([[東京国立博物館]]に断片2幅が近いとされる、概要は同博物館所蔵の模本で分かる)に生かされたと考えられる。また、近江に下向した際、[[六角氏]]の居城[[観音寺城]]本丸に「[[犬追物]]図」を描き、その模本が伝存する。
 
『[[お湯殿の上の日記]]』の永禄3年([[1560年]])6月から12月まで、宮中で[[源氏物語]]の「[[葵 (源氏物語)|車争図]]」屏風を光茂に描かせることについて多数の記述があり、[[仁和寺]]が所蔵する六曲一双の「車争図」屏風が、この時の作品であると言う説が有力である。この絵では、従来の物語を説明するための「絵解き」から解放され、絵画作品として一つの世界を作り出しており、絵自体の面白さが目立ち、古典を題材とした風俗画に近くなっている。本作と同図の作が後世にも連綿と作られており、このような物語絵の創作と規範化、継承には、光茂の役割は大きかったと考えられる。
 
永禄12年(1569([[1569]])には[[織田信長]]の命により[[足利義昭]]邸の障壁画を描いた。同年8月、息子光元が戦死、光茂は絵所領である[[和泉国]][[南区 (堺市)|上神谷]]の安堵を求めて、[[細川幽斎]]や[[今井宗久]]らに働きかけたが叶わなかった。失意の光茂は結局弟子の光吉に土佐家代々の記録書や粉本を譲り、光元の遺児3人の養育を頼むと、間もなく[[堺]]で亡くなった。
 
画風は、父光信がやや粗い筆致と淡い彩色の枯淡な味わいだったのに比べ、人物・風俗の描写が豊かで、色彩も鮮麗になり、より[[近世]]的な明るさに溢れる。また、[[狩野派]]などの漢画の力強い描線による造形把握や構図法を取り入れ、[[水墨画]]作品も手がけるなど、和漢が混合した様式を作り上げた。
 
==代表作==
31行目:
:* 部分によって描写のばらつきがあるものの、光茂と彼の工房か、光茂周辺の絵師の作だと考えられる。
 
== 参考資料文献 ==
* 亀井若菜 『表彰としての美術、言説としての美術史 <small>室町時代足利義晴と土佐光茂の絵画</small>』 ブリュッケ、2003年 ISBN 978-4-4340-3644-6
* [[宮島新一]]『日本の美術247 土佐光信と土佐派の系譜』 [[至文堂]]、1986年
* 週間朝日百科『世界の美術117 土佐派・狩野派絵画の成立』 [[朝日新聞社]]、1980年
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
== 外部リンク ==