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<!--亮政の活躍を目にしていただけに2代目久政の気弱さにほとほと落胆していたと言われ、-->亮政の子の[[浅井久政|久政]]の代には浅井家重臣[[遠藤直経]]らとともに長政への家督委譲と久政の隠居を計画、久政が城を出た隙に小谷城を占拠し長政への家督委譲を認めさせた。この家督交代劇は[[武田信虎]]から家督を奪い取った[[武田信玄|武田晴信]]らの行動と似てはいるが、信虎が生涯[[躑躅ヶ崎館]]への帰還が叶わなかったのに対し、久政は長政や家臣らと和解しすぐに小谷城へ戻っている。長政が当主となった頃には老齢で合戦の表舞台に出ることはなかったが、軍目付的な存在として陣中に赴いていたという。亮政が[[六角氏]]との攻防により一時越前に退避、[[朝倉氏]]と同盟を結び再起を図ったという経緯から家中では朝倉寄りの立場を取りつづける。浅井家3代にわたって仕えてきた人物だけに朝倉との関係も非常に深かったのであろう。
 
天正元年(1573年)、[[織田信長]]の小谷城攻撃で捕虜切腹するなり斬首、[[信長公記]]巻六に記される。または、討死したとも伝わてある。嫡子虎千代の命は清綱のこれまでの働きと忠義に免じて信長直々に助命したといわれている。
 
{{DEFAULTSORT:あかお きよつな}}