「カール・フォン・クラウゼヴィッツ」の版間の差分

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== 生涯 ==
===少年時代===
1780年にプロイセン王国の[[マクデブルク]]市の東北20キロ先にあるブルク町で生まれる。父親フリードリヒ・ガブリエル・クラウゼヴィッツはクラウゼヴィッツが生まれた時には徴税官であった。ガブリエルは[[七年戦争]]の末期に少尉として従軍し、戦後の1763年に中尉に昇進し、退役してからブルクの徴税官となった。母ジェリアンと4人の息子と2人の娘を儲けており、カール・クラウゼヴィッツは一番下の弟であった。ガブリエルに影響があった陸軍のフォン・フント少佐の取り計らいもあって、4人の息子の3人は将校とされており、クラウゼヴィッツは[[1792年]]に12歳でポツダムのフェルディナント親王歩兵連隊に[[ユンカー]]として入隊した。[[第一次対仏同盟|第一次対仏同盟]]戦争でフェルディナント親王連隊は[[1794年]]3月に[[ラインラント]]におけるマインツ攻城戦で初めて戦闘に参加した。その行軍の途上でクラウゼヴィッツは旗手を勤めている。戦闘は4月1日に開始され、砲兵が配置につく6月18日まで続き、7月23日にフランス軍が降伏する2日前に将校相等の准士官に昇進した。
 
===士官学校===
クラウゼヴィッツは少尉に任官した15歳からの6年間をノイルッピンで過ごす。当時の連隊長の考課表によれば、有能かつ熱心、頭脳明晰で好奇心旺盛と評価されている。そこで連隊長は[[1801年]]にクラウゼヴィッツを[[ベルリン]]の士官学校に送った。そこで後に「父でもあり、心の友であった」と評する[[ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト|シャルンホルスト]]中佐のもとで[[軍事学]]を学ぶ機会を得ただけでなく、シャルンホルストが非公式に設置した軍事学会に入会することができた。この学会は論文の審査によって入会が許され、時事的な軍事問題の解決や国防意識の発揚のための学術的な研究団体として組織された。クラウゼヴィッツはこの学会で学術研究の様式を習得し、数学、論理学、地理学、歴史学、文学の一般教養と軍事学の専門知識を深め、1803年に学校を主席で卒業した。卒業後はシャルンホルストの推薦もあって軍事学会の会員でもあったアウグスト親王が指揮する近衛大隊に副官として勤務することになった。クラウゼヴィッツは半年間の試験採用期間を経て正式に副官となってからは宮廷社会に入るようになる。この時期にクラウゼヴィッツは[[フリードリヒ・フォン・シラー|シラー]]の文学に親しみ、[[ニッコロ・マキャヴェッリ|マキアヴェリ]]や[[シャルル・ド・モンテスキュー|モンテスキュー]]の著作を読み、[[イマヌエル・カント|カント]]哲学の講義にも出席している。後に詳述するマリー・フォン・ブリュールと知り合ったのもこの頃で、1805年に婚約している。
 
===アウエルシュタットの戦いでの敗北===