「フランシスコ・デ・スルバラン」の版間の差分

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スペイン南西部、[[エストレマドゥーラ州|エストレマドゥーラ]]地方のフエンテ・デ・カントスに生まれる。1614年から1617年にかけて[[セビリャ|セビーリャ]]の画家ペトロ・ディアス・ビリャヌエバに師事した。なお、この師については詳しいことはわかっていない。1617年にはエストレマドゥーラ地方の町リェレーナに移り、同地で結婚した。1625年には13歳年下の未亡人と再婚。翌1626年からセビーリャで活動している。このセビーリャ進出については再婚した妻の縁者のつてがあったと言われている。
 
1628年には[[メルセス会]](13世紀にスペインで成立した修道会)の注文で、同会の創設者・聖ペドロ・ノラスコの生涯を描いた連作を制作している。以後、1630年代にはセビーリャを中心に活動している。1634年には[[マドリード]]の[[ブエンレティーロ宮]]「諸王国の間」の装飾という大仕事を依頼されている。これには同時代の大画家[[ディエゴ・ベラスケス|ベラスケス]]の引きがあったと言われている。1638-1639年には[[グアダルーペ]]修道院聖具室の装飾に携わっており、この頃がスルバランの全盛期であった。
 
1640年代にはスルバランの人気は急速に衰えた。この頃のスペイン画壇では、甘美で感傷的なマリア像などを描いて人気のあった[[バルトロメ・エステバン・ムリーリョ|ムリーリョ]]が一世を風靡し、厳格な様式のスルバランの絵画は時代遅れと見なされていたのであった。また、この頃にはセビーリャの街そのものが独占貿易権を失ったことによって、かつての活気を失っていた。街を襲った[[ペスト]]禍もそれに追い討ちをかけた。