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==ハイナ島の土偶==
===概要===
ハイナ島は、確認されているだけでも20000基といわれる墓があり、そのうち発掘調査が行われたのは1000基を上回る程度である。そういった墓には、副葬品として、研究者によって光沢土器、硬質土器(Slateware)と分類される土器をはじめとして、水や食料を入れるのに用いられたであろう土器類、日常生活用品、数個ほどの宝石、1~21 - 2体ほどの土偶みられ、土偶は、被葬者の遺骸のほかに胸の近くに置かれるか手に握らされる状態で発見される。
 
ハイナ島の土偶は、おおむねオレンジ色の粘土を用いて作られ、背の高さは、一般的には、25cmから65cmくらいで、まれにそれよりも大きいものもみられる<ref>Kubler1984, p. 266.</ref>。当時の男女それぞれの姿を描き、服装や装身具をはじめとする社会的地位を表す目印になる特徴や、日常生活を表現するのみならず、老人や身障者、猫背になっている人物や小人のような人物を表現しているものもある。動物や抽象的なものを表現している場合もある。ハイナ島でみられる人骨には[[頭蓋変形]]や[[抜歯]]、入れ歯がみられるものがあるが、土偶にもそのような習慣が表現され、さらには、身体を傷つけたり、顔や体に塗色する習慣があったことがうかがうことができる。
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大方の研究者の一致した見方として、時期や年代について意見の相違があるものの、古い時期の土偶が手づくねでつくられ、新しい時期のものが型を用いて作っていることについては一致している。
 
この製作技法の違いに着目して、クリストファー・コーソンは、1975年にハイナ島の土偶を紀元600年から800年を第I期、紀元800年~1000 - 1000年を第II期、紀元1000年~1200 - 1200年をカンペチェ期とする3期に分ける編年案を発表した。この編年は、製作技法の変化とその背後にある文化や社会の変化を探るないしは加味することも視野に入れての編年であった。しかし、3期に分けることについて一致できてもその年代の設定については、ジョージ・カブラーのように、コーソンより200年ほど古く置く考え方を示すなど研究者によって意見が異なり、後述するように最近の多くの研究者の時期設定はカブラーの見方に限りなく近い。
 
コーソンの第I期のほとんどの土偶は、手ずくねであって、職人的ともいえるほど手の込んだ作りになっていて、芸術性も高い。顔料は、粘土が乾燥してから塗られ、特定の主題や様式があり、ハイナ島の土偶の独自性や個性が定着、普及していく時期にあたる。
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カンペチェ期の土偶は、すべてを型によって作り、しばしば表面に漆喰を施すものがみられる。[[ショチケッアル]]か[[イシュ・チェル]]といった女神を表現したであろう腕を高く上げた女性の立像が圧倒的であって、ほかのすべての主題を合わせたよりも多い。こういった土偶は、副葬品でもあることから埋葬儀礼にも大きく影響を与えていたと推察される。
 
このコーソンの編年については、内容はともかく年代の設定については、多くの研究者の意見は決定的に異なっており、手づくねの土偶の年代はおおむね古典期前期(紀元250年~600 - 600年ないし650年)に置かれ、型を用いて作られているものは、古典期後期から後古典期とされている。古典期前期の土偶は、手づくねで作られ、内部までそのまま粘土のかたまりとなっている。この時期の土偶は、表面に線を刻み、何かで押すか刺すかした穴がつけられ、粘土粒や粘土ひもの貼り付けや彩色が施されている。職人的な技能が注ぎ込まれ、美術的にも高く評価されているこの時期の土偶は、コーソンのI期の内容に相当している。
 
紀元600ないし650年<ref>ポーター・ウェーバー(Porter Weaver1993,p.361)とベナヴィデス(Benavides C.2001,p68)では、前者は時期を50年ほど遅らせる。</ref>以降になると、土器に型をつかう技術が用いられるようになり、連結して作られた土器もみられるようになる。この技術は、土偶をつくるのにも用いられ、胴体を型でつくり、頭や手足を手づくねでつくることもあった。それ以前のように内部まで粘土が充填されず、中空になっている、顔や頭飾りが丁寧につくられるが、手足のつくりが雑であるという特徴がある。