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'''後拾遺和歌集'''(ごしゅういわかしゅう)は[[八代集]]の第四、『[[拾遺和歌集|拾遺集]]』の後継たるべく編まれた[[勅撰和歌集]]である。勅命は[[白河天皇]]、撰者は[[藤原通俊]]。[[承保]]二年([[1075年]])奉勅、[[応徳]]3年([[1086年]])[[9月16日 (旧暦)|9月16日]]完成を見、同年10月奏覧された。二十巻、総歌数1218首(新編国歌大観本)。
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'''後拾遺和歌集'''(ごしゅういわかしゅう)は[[八代集]]の第四、『[[拾遺和歌集|拾遺集]]』の後継たるべく編まれた[[勅撰和歌集]]である。勅命は[[白河天皇]]、撰者は[[藤原通俊]]。[[承保]]二年([[1075年]])奉勅、[[応徳]]3年([[1086年]])[[9月16日 (旧暦)|9月16日]]完成を見、同年10月奏覧された。二十巻、総歌数1218首(新編国歌大観本)。
 
構成は[[古今和歌集]]を基とし、春(上・下)、夏、秋(上・下)、冬、賀、別、羇旅、哀傷、恋(四巻)、雑(六巻)からなる。巻二十(雑歌六)に収める「神祇」「釈教」の分類は勅撰集における初見。選歌範囲は『古今』『[[後撰和歌集|後撰]]』以後、[[村上天皇|村上]]朝から白河朝までの約130年間である。
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『後拾遺集』は、格調よりも率直な情感を重んじ過ぎたため、撰者が若輩の歌人であったこともあいまって撰進当時から批判の声が多かった。たとえば、歌壇の重鎮でありながら撰者の任に漏れた大納言[[源経信]](1016~1097年)は、『[[難後拾遺]]』を著して論難した。
 
== 逸話 ==
* 通俊は歌壇の先輩たちに協力を求め、草稿本は[[周防内侍]]・[[康資王母]]・源経信らの内覧を経た。特に経信とは『後拾遺問答』を取り交わし、経信の意見が選歌の入れ替えに影響した。一旦完成奏覧された後も、『難後拾遺』を重く見た通俊は、修訂を加えて再奏本を作成した。
 
* [[津守国基]]の歌が『後拾遺集』に三首も入っているのは、通俊に賄賂として鰺(アジ)を贈った為だと風評され、「小鰺集」の異名を得たという([[袋草紙]])。
* [[講談社学術文庫]]全4巻で、『後拾遺和歌集 全訳注』(藤本一恵訳注、品切)がある。
 
== 関連項目 ==
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[[Category:平安時代の歌集]]