「オットー・クーシネン」の版間の差分

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ソビエト社会主義共和国連邦成立後は、国際共産主義運動に参加し、[[コミンテルン]]フィンランド共産党代表、情報部長、幹部会員を経て、[[1921年]][[コミンテルン]]執行委員会書記として運動で重要な役割を果たした。[[32年テーゼ]]の起草に参加し、[[日本共産党]]に対する指導も行った。
 
フィンランド内戦後、社会主義者、共産主義者に対する国民の憎悪は激しく、多くの左翼がソ連に逃れた。しかし、[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]による[[大粛清]]は亡命フィンランド人に対しても容赦なく襲い掛かり、1930年代フィンランドに帰国しなかった人々は[[反革命]]派、スパイ容疑で逮捕、粛清された。クッレルボ・マンネル、ユラジョ・シロラ、エドバルド・ギュッリングなど、クーシネンと同期の主だった人物はすべて粛清された。クーシネンの妻アイノ・クーシネンも当局に逮捕されている。クーシネン自身は、粛清の対象から外れたため、フィンランド人からは祖国のみならず同胞・同志までソ連に売り飛ばした裏切り者としてその名は一層の失墜を免れなかった。
[[Image:Terijokipakten.jpg|left|280px|thumb|クーシネン(1939年) フィンランド民主共和国とソ連間の協定にサインするソ連外相モロトフの真後ろ、スターリンの右隣に立っている。]]
[[1939年]][[11月30日]][[冬戦争]](ソ・フィン戦争)では、ソ連の占領した国境地帯の町テリヨキ(現在のゼレノゴルスキ)に樹立された[[傀儡政権]]「[[フィンランド民主共和国]]」の首班となった。ソ連および傀儡政権の意図は失敗に終わり、[[1940年]][[3月12日]]モスクワ講和条約でソビエト連邦構成国であるカレロ・フィン・ソビエト社会主義共和国(現在の[[カレリア共和国]])に統合され、クーシネンはカレロ・フィン共和国[[最高会議]]幹部会議長に就任した。この時期に後にソ連共産党書記長となる[[ユーリ・アンドロポフ]]を引き立てている。
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1964年5月17日モスクワで死去。死後、他のソビエト指導者と同様、[[クレムリン]]の壁に葬られた。
 
クーシネンは同胞たる[[フィンランド人]]の間では、内戦で1918年以降祖国を捨てたことに加え、冬戦争でソ連の傀儡政権の首班となったことによりその悪評が増した。クーシネンとフィンランド人の間には相互に嫌悪感が存在し、単独でフィンランド人と会見することはなかったと伝えられる。ランタネンは彼を「スターリンのもっとも天才的な弟子」と評した
 
クーシネンは、[[マルクス・レーニン主義]]における理論家として、[[弁証法的唯物論]]、[[レーニン主義]]、[[共産主義]]の主要な解釈を提示していた。その一方で、クーシネンはソ連要人の中では比較的「リベラル」であると見なされるむきもある。これは、スターリンの死後、フルシチョフに接近し、フルシチョフの支持の下、急進的な農業、工業、技術開発を内容とする新しい党綱領を起案し、[[プロレタリア独裁]]の概念を撤廃し、旧スターリン派やネオ・スターリニストら保守派に恐慌状態を巻き起こしたためである。このため、クーシネンを[[ペレストロイカ]]の思想的先達と評価する向きも一部にはある。