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[[永正]]元年([[1504年]])の[[立河原の戦い]]で房清(房清は既に没してその子とも)が戦死すると、ようやく当主として自立する事が出来た。永正7年([[1510年]])の上杉顕定の没後、関東管領と山内上杉家当主の座を巡って[[上杉憲房 (戦国時代)|上杉憲房]]と[[上杉顕実]]が争ったときに[[横瀬景繁]]と共に憲房を擁立して顕実側の[[成田顕泰]]・[[長尾顕方]]と戦い、顕実の居城[[鉢形城]]を攻め落とした。憲房の勝利後、景長は顕実側の長尾顕方に替わって山内上杉家の家宰に任じられた([[永正の乱]])。
 
景長は画家としても優れており、彼が建立した[[長林寺]](栃木県足利市)には彼の[[自画像]]、関東の代表的な[[水墨画]]家[[祥啓]]に倣った[[山水画|山水図]]が遺されている。また、[[狩野正信]]とも親交があったとも言われている。
 
== 脚注 ==