「ペタル・デリャンの蜂起」の版間の差分

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== 蜂起 ==
1040年、ブルガリア皇帝ガブリル・ラドミルの子と言われるペトロタル・デリャンは不満を持つブルガリア人を纏めてベオグラードで反乱を起こし、そして[[スコピエ]]でブルガリア帝国の復活を宣言した。地元ブルガリア人も蜂起に加わり、スコピエに住んでいたギリシャ人を殺した。反乱軍は南下して[[アルバニア]]、[[マケドニア]]を瞬く間に占拠しさらに、テーベの戦いで東ローマ軍に勝利して[[ボイオティア]]をも占拠した。アテネ、ピレウスも反乱軍に加わり、一時期はバルカン半島の大部分が反乱軍の手に落ちた。
 
== 鎮圧 ==
しかし、反乱は長くは続かなかった。皇帝[[ミカエル4世]]は南イタリアで[[ヴァリャーグ]]を率いていた[[ハーラル3世 (ノルウェー王)|ハーラル3世]]を呼び寄せ、大規模な鎮圧軍を編成した。そしてオストロボの戦いでブルガリア反乱軍を徹底的に打ち破った。この戦いでハーラルの活躍は目覚ましく、後にスカンティナヴィアのサガで「ブルガリアを滅ぼした者」と称賛された。反乱の首謀者ペトロタル・デリャンは処刑されたと言われる。
 
== その後 ==