「西園寺姞子」の版間の差分

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'''西園寺 姞子'''(さいおんじ きつし、[[嘉禄]]元年([[1225年]]) - [[正応]]5年[[9月9日_(旧暦)|9月9日]]([[1292年]][[10月20日]]))は、[[後嵯峨天皇]]の[[中宮]]で後に[[皇太后]]。[[西園寺実氏]]の長女で、母は[[四条隆衡]]の娘・[[四条貞子]](北山准后)。[[後深草天皇|後深草]]・[[亀山天皇|亀山]]両[[天皇]]の生母、[[女院]]。[[院号]]は'''大宮院'''(おおみやいん)。[[戒名|法名]]は'''遍智覚'''(へんちかく)。
 
== 生涯 ==
[[仁治]]3年([[1242年]])1月の後嵯峨天皇の即位を受けて、6月に急遽18歳にして同天皇の[[女御]]となり、その2ヵ月後に[[中宮]]に冊立された。4年後、後嵯峨天皇が姞子所生の後深草天皇に[[譲位]]して[[太上天皇|上皇]]となったのを受けて、[[宝治]]2年([[1246年]])6月に院号[[宣下]]を受けて「大宮院」の称号を与えられた。
 
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正応5年(1292年)に68歳で崩じ、粟田山陵([[京都市]][[左京区]])に葬られた他、[[聖徳太子]]の墓所がある[[叡福寺]]([[大阪府]][[太子町 (大阪府)|太子町]])内に分骨されて[[宝篋印塔]](分骨塔)が建てられた。
 
== 関連項目 ==
*[[両統迭立]]
 
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