「軍部大臣現役武官制」の版間の差分

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== 概説 ==
明治憲法下における軍部大臣現役武官制は、軍部大臣の補任資格を現役武官の大将・中将に限る制度であり、軍部大臣の補任資格を武官の大将・中将に限る「軍部大臣武官制」より資格者の範囲をさらに狭めている。現役とは平時軍務に従事する常備兵役を指し、現役武官の人事は、[[内閣 (日本)|内閣]]の関与が不可能な天皇の[[統帥権]]に関わる。このため、軍部大臣現役武官制の採用によって、明治憲法下の内閣総理大臣が「同輩内の主席」でしかなく[[組閣]]に軍部の合意が事実上必要となっていたことから、軍部によるその意向にそわない組閣の阻止が可能となった。また、たとえ一度組閣されても、内閣が軍部と対立した場合、軍が軍部大臣を辞職させて後任を指定しないことにより内閣を総辞職に追い込み、合法的な[[倒閣]]を行うことができた。このようにして、軍部の政治介入が可能となり、軍部の政治的優位が確立した。ただし、これは戦前の内閣が内閣官制という勅令によって規定されるものでしかなく(内閣は憲法上に規定なく、法律上の規定すらない)、上述の内閣総理大臣の立場が「同輩内の首席」にすぎず、閣僚の任命、罷免権がなかったという制度的な欠陥があったために生じたものである。この反省に立って、日本国憲法においては内閣総理大臣は行政各部を指揮監督する権限を与えられ(日本国憲法第72条)、内閣総理大臣は何らの理由を問わず(総理大臣の単なる好き嫌いであってもよい)他の閣僚の任命、罷免権が付与(日本国憲法第68条1項、2項)されるなど内閣総理大臣の権限が強化された
 
このため、軍部大臣現役武官制の採用によって、明治憲法下の[[内閣総理大臣]]が「同輩内の主席」でしかなく[[組閣]]に軍部の合意が事実上必要となっていたことから、軍部によるその意向にそわない組閣の阻止が可能となった。また、たとえ一度組閣されても、内閣が軍部と対立した場合、軍が軍部大臣を辞職させて後任を指定しないことにより内閣を総辞職に追い込み、合法的な[[倒閣]]を行うことができた。このようにして、軍部の政治介入が可能となり、軍部の政治的優位が確立した。
日本では、[[明治時代]]の初め、当時の軍部大臣に当たる[[兵部卿]]の補任資格を「少将以上」の者に限っていた。その後、同様の規定は中断したり復活したりしていたが、[[1900年]](明治33年)に、[[山縣有朋]]首相の主導で、軍部大臣現役武官制を明確に規定した。これは、当時勢力を伸張していた[[政党]]に対して、軍部を権力の淵源としていた[[藩閥]]が、影響力を維持するために執った措置とされる。しかし、[[日露戦争]]後の国際状況の安定と政党政治の成熟により藩閥と軍部の影響力は衰え、[[1913年]](大正2年)には軍部大臣の補任資格を「現役」に限る制度が改められた。再び軍部の影響力が強まった[[1936年]](昭和11年)に軍部大臣現役武官制は復活し、[[1945年]](昭和20年)の終戦後、軍部大臣が消滅するまで続いた。
 
ただし、これは戦前の内閣が内閣官制という勅令によって規定されるものでしかなく(内閣は憲法上に規定なく、法律上の規定すらない)、上述の内閣総理大臣の立場が「同輩内の首席」にすぎず、閣僚の任命、罷免権がなかったという制度的な欠陥があったために生じたものである。この反省に立って、日本国憲法においては内閣総理大臣は行政各部を指揮監督する権限を与えられ(日本国憲法第72条)、内閣総理大臣は何らの理由を問わず(総理大臣の単なる好き嫌いであってもよい)他の閣僚の任命、罷免権が付与(日本国憲法第68条1項、2項)されるなど内閣総理大臣の権限が強化された。
 
日本では、[[明治時代]]の初め、当時の軍部大臣に当たる[[兵部卿]]の補任資格を「少将以上」の者に限っていた。その後、同様の規定は中断したり復活したりしていたが、[[1900年]](明治33年)に、[[山縣有朋]]首相の主導で、軍部大臣現役武官制を明確に規定した。これは、当時勢力を伸張していた[[政党]]に対して、軍部を権力の淵源としていた[[藩閥]]が、影響力を維持するために執った措置とされる。しかし、[[日露戦争]]後の国際状況の安定と政党政治の成熟により藩閥と軍部の影響力は衰え、[[1913年]](大正2年)には軍部大臣の補任資格を「現役」に限る制度が改められた。再び軍部の影響力が強まった[[1936年]](昭和11年)に軍部大臣現役武官制は復活し、[[1945年]](昭和20年)の終戦後、軍部大臣が消滅するまで続いた
 
しかし、[[日露戦争]]後の国際状況の安定と政党政治の成熟により藩閥と軍部の影響力は衰え、[[1913年]](大正2年)には軍部大臣の補任資格を「現役」に限る制度が改められた。再び軍部の影響力が強まった[[1936年]](昭和11年)に軍部大臣現役武官制は復活し、[[1945年]](昭和20年)の終戦後、軍部大臣が消滅するまで続いた。
 
一方、日本以外の国、特に西欧諸国においては、第二次世界大戦以前においても軍部大臣に文官を任用する例も多く、政治の軍事に対する優位を原則とする[[文民統制]]の理念が確立している。
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軍部大臣現役武官制は、[[1871年]](明治4年)7月、[[兵部省]]職員令に「卿一人 本官[[少将]]以上」として、[[兵部卿]]には少将以上の者をあてると定めたことが起源とされる。その後、[[1886年]](明治19年)2月27日に公布された各省官制(明治19年勅令第2号)では、次官以下の「陸軍省職員」、「海軍省職員」については、「武官ヲ以テ之ニ補ス」として、原則的に武官を任用すると定めたものの(陸軍2条、海軍2条、通則25条)、大臣については特に定めを置かなかった。
 
[[1890年]](明治23年)3月27日には、陸軍官制および海軍官制を改正し、「職員」に武官を任用するとの原則規定を削除した。ただ、陸軍省官制では大臣に「将官」をあてると定め(別表)、海軍省官制では特に定めを置かなかった(別表参照)。翌[[1891年]](明治24年)7月27日には、陸軍省官制を改正して、大臣および次官に「将官」をあてるとの定めを削除した(別表参照)。これにより、陸海軍省ともに、大臣を武官に限るとの定めをなくした。ただし、この時期においても現役将官以外が軍部大臣となった例はない。
 
=== 創設 ===
[[1900年]](明治33年)、[[第2次山縣内閣]]は、陸軍省官制および海軍省官制を改正し、「大臣(大中将)」、「陸軍大臣及総務長官ニ任セラルルモノハ現役将官ヲ以テス」と定めた(附表、別表)<ref>総務長官とは、総務局の局長を指し、次官にあたる。</ref>。これは、軍部を権力の淵源としていた藩閥勢力が、当時力を付けて来た議会・政党勢力の軍事費削減攻勢に対する処置として執ったものである。これ以後、[[大命降下]]<ref>天皇が選任した者に対して、[[内閣総理大臣]]となることを命じ、並びに組閣構想の答申を命じること。適格な大臣候補を推挙できなければ、組閣できない。大命降下を受けながら組閣できなかった内閣を「流産内閣」という。</ref>があっても、軍部が現役武官の中から大臣候補を挙げなければ組閣できず、辞職して代わりの候補を出さなければ内閣を維持することもできないこととなる。この規定によって、軍部の意向を抜きに組閣し、内閣を維持することは難しくなった。
 
[[第2次西園寺内閣]]のとき、緊縮財政による国家財政再建や行政整理を理由に、[[西園寺公望]]首相が、陸軍による「二個師団増設」の要求を拒否した(二個師団増設問題)。これに対して、[[上原勇作]]陸軍大臣が、単独で[[帷幄上奏]]して辞職した。陸軍は後任の候補を出さず、軍部大臣現役武官制のために、第二次西園寺内閣は陸軍大臣を欠き、内閣は総辞職せざるを得ず、結果的に軍部による合法的な倒閣が実現される恰好となった。この政変は「陸軍の[[ストライキ]]」「陸軍による毒殺」とまで言われ、以降、国政において軍部大臣現役武官制が注目される契機となった。
 
=== 廃止 ===
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[[1947年]](昭和22年)に施行された[[日本国憲法]]には、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」([[日本国憲法第9条|9条]])と定め、さらに「[[内閣総理大臣]]その他の国務大臣は、[[文民]]でなければならない。」([[日本国憲法第66条|66条2項]])と定めた。これにより、軍隊がないために武官も軍部大臣も存在せず、仮に武官がいたとしても国務大臣には就けないこととなった。しかし、その後の国際情勢の変転に伴い、[[1950年]](昭和25年)には、[[軍隊]]に匹敵する装備を持つ[[警察予備隊]]が創設され、この事務を掌理するため警察予備隊本部が置かれた。この警察予備隊本部の長官は国務大臣ではなく、警察予備隊担当の国務大臣が置かれた。
 
警察予備隊は、[[保安隊]]を経て、[[1954年]](昭和29年)に[[陸上自衛隊]]となった。自衛隊の事務は、[[防衛庁]](後に[[防衛省]])が掌理し、[[防衛庁長官]](後に[[防衛大臣]])には国務大臣があてられた。国際的には、事実上、防衛庁長官(防衛大臣)は軍部大臣、自衛隊は軍隊、[[自衛官]]は武官と目されるようになった。

しかし、現役の自衛官が防衛大臣を兼ねることはともかく、かつて[[職業軍人]]であった者や自衛官であった者が、防衛大臣に就任すること自体は憲法違反にあたらないと解されている(例えば、旧[[海軍経理学校]]出身の[[中曽根康弘]](少佐)、[[松野頼三]](少佐)、[[山下元利]](中尉)らや[[陸上自衛隊|陸上自衛隊]]自衛官([[二等陸尉]])であった[[中谷元]]が防衛庁長官に就任している)。だが、海軍大将だった[[野村吉三郎]]は1950年代に防衛庁長官に就任させる構想が存在したが、文民統制の観点から断念となった。
 
なお、武官にあたる自衛官(いわゆる制服組)のみならず、文民(文官)にあたる内部部局の[[防衛参事官]]、[[書記官]]等[[事務官]](いわゆる背広組)であっても、防衛大臣その他の国務大臣を兼ねることは禁じられていると解される。なぜなら、防衛事務官は全て[[自衛隊員]]であり([[自衛隊法]]2条5項)、政治的行為が制限されているからである(同法61条、同施行令86条)。
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== 脚注 ==
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