「及川古志郎」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Yasumi (会話 | 投稿記録)
名前の由来
ひろくん (会話 | 投稿記録)
56行目:
[[1941年]](昭和16年)[[10月12日]]の近衛首相私邸での[[荻外荘会談]]では、アメリカの要求を呑んで中国から撤兵するか、それとも日米開戦かという基本方針が話し合われたが、その際、及川は「総理一任」と述べている。同年[[10月18日]]の海相辞任後は[[軍事参議院|軍事参議官]]、[[海上護衛総司令部]]長官、[[軍令部]]総長などを歴任した。昭和20年([[1945年]])[[9月5日]]、[[予備役]]。
 
及川海相から[[嶋田繁太郎]]海相に移った頃には戦争の方向に進路は定まっており、不安に思った次官の[[本頼雄]]が10月頃から12月も迫ってからも何度も[[岡田啓介]]、[[米内光政]]の家に日米開戦を回避するにはどうしたらいいかと相談に通ったが両者は何も言わなかったという。
 
ちなみに及川は熱心な読書家であり、漢籍については日常的に[[白文]]で読みこなすほど学者顔負けであった。蔵書も数多く保有しており、自宅の土蔵の一つは完全に書庫となっている。古書の老舗[[丸善]]には及川担当者が置かれるほどの上得意であった。[[石川啄木]]に少なからぬ影響を与えたといわれている。