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'''溝口 宣知'''(みぞぐち のぶとも、[[元和 (日本)|元和]]4年([[1618年]])- [[万治]]2年[[7月7日 (旧暦)|7月7日]]([[1659年]][[8月24日]]))は[[江戸時代]]の[[旗本]]。[[新発田藩]]第2代藩主[[溝口宣勝]]の四男。兄に、3代藩主[[溝口宣直]]、分家切梅(横田)溝口家の[[溝口宣秋]]、池之端(池端・池ノ端)溝口家の[[溝口宣俊]]。分家独立して旗本となる。通称は左京。母は[[堀秀政]]の娘。正室は[[京極高通 (丹後国峰山藩主)|京極高通]]の娘。
 
[[寛永]]5年([[1628年]])に[[徳川秀忠]]に初目見えをする。同年、父宣勝の遺領のうち[[越後国]][[蒲原郡]]の4500石を分与されて、知行地に[[陣屋]]を設ける。宣知の陣屋は当初水原(現[[新潟県]][[阿賀野市]])に置かれたが、のち[[正保]]元年([[1644年]])に二ツ堂(現新潟県[[新発田市]]二ツ堂)に移転した。これにより宣知の家は二ツ堂溝口家と称された。[[明暦]]元年([[1655年]])には[[下館城]]の在番を勤める。[[万治]]2年([[1659年]])に42歳で歿。法名は宗全。[[江戸]]駒込の[[吉祥寺 (東京都文京区)|吉祥寺]]に葬る。宣知には男子がなく、その家は一代で断絶となった。
 
{{DEFAULTSORT:みそくち のふとも}}