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'''朱祐杭'''(しゅ ゆうこう、'''朱祐杬'''とも、[[1476年]]([[成化]]12年)- [[1519年]]([[正徳 (明)|正徳]]14年))は、[[明]]皇族、[[明]]朝の孝宗[[弘治帝]]の異母弟、世宗[[嘉靖帝]]の実父。 [[廟号]]'''睿宗'''、[[諡号]]獻皇帝, 興獻皇帝
 
== 生厓 ==
憲宗[[成化帝]]の第四子として邵宸妃(孝恵皇后)を母として生まれる。孝宗[[弘治帝]]の異母弟、武宗[[正徳帝]]の叔父。 1487年に興王に封じられ、1494年に封地である湖広安陸州(今の[[鍾祥市]])に到る。正徳14年6月17日に逝去し、正徳帝からは「献(獻)」の[[諡|諡号]]を贈られた。
 
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朱厚熜は帝位に就いた後、実父に対し尊号を追封したいと思うようになり、これが3年半にも及ぶ「[[大礼の議]]」と呼ばれる論争の発端となった。朝臣の反対をも顧みず、嘉靖帝は実父に対し興献帝、後にまた加封し献皇帝と追尊した。また生母にも興国皇太后と追尊し、弘治帝を「皇伯考」と改称した。1538年9月、祐杭に「睿宗」の[[廟号]]が追尊された。もとの興献王の墳墓は明の[[顕陵]]へと改葬された。
 
{{明の皇帝}}
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[[Category:明の皇族|ゆうこう]]