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'''フィル・デント'''('''Phil Dent''', [[1950年]][[2月14日]] - )は、[[オーストラリア]]・[[シドニー]]市出身の男子[[テニス]]選手。[[1974年]]の[[全豪オープン]]男子シングルス準優勝者。キャリアを通じてダブルスに優れ、[[男子プロテニス協会|ATP]]ツアーでシングルス3勝、ダブルス24勝を挙げた。身長182cm、体重78kg、右利き。[[テーラー・デント]]の父親としても有名である。
 
フィル・デントの[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]出場歴は[[1968年]]から始まるが、この年はテニス4大大会にプロ選手の出場を解禁する「オープン化措置」が実施された転換期であった。デントは4大大会初出場となった1968年1月の「[[1968年オーストラリア選手権 (テニス)|全豪選手権]]」でいきなりベスト8に進出する。オープン化制度のもとで開かれた1968年「[[1968年全仏オープンテニス|全仏オープン]]」には出場していないが、[[1968年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン選手権]]に出場した。[[1969年]]から「[[1969年全豪オープン|全豪オープン]]」となった地元開催の4大大会では、1回戦で[[ケン・ローズウォール]]に敗退する。彼のテニス経歴のハイライトとなった[[1974年]]の[[1974年全豪オープン|全豪オープン]]では、決勝で[[ジミー・コナーズ]]に 6-7, 4-6, 6-4, 3-6 で敗れて準優勝に終わった。その後、デントは[[1977年]]に[[1977年全仏オープンテニス|全仏オープン]]でベスト4、[[1977年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]でベスト8入りを果たしたが、[[全米オープン (テニス)|全米オープン]]は[[1973年全米オープン (テニス)|1973年]]の3回戦進出が最高で、全米との相性は良くなかった。
 
フィル・デントはダブルスに強く、同じ[[オーストラリア]]の[[ジョン・アレクサンダー]]と組んで多くの好成績を残した。地元開催の[[全豪オープン]]では、[[1975年全豪オープン|1975年]]にアレクサンダーとのペアで優勝を飾ったが、[[1970年全豪オープン|1970年]]・[[1973年全豪オープン|1973年]]・[[1977年全豪オープン (12月)|1977年12月]]の大会で3度準優勝がある。([[1977年]]の全豪オープンは、年頭の[[1977年全豪オープン (1月)|1月開催]]と年末の[[1977年全豪オープン (12月)|12月開催]]の2度行われた。)[[全仏オープン]]の男子ダブルスでは、[[1975年全仏オープンテニス|1975年]]と[[1979年全仏オープンテニス|1979年]]の2度準優勝に終わった。1975年はアレクサンダーとのペアだったが、1979年は(いつもと違って)同じ[[オーストラリア]]の[[ロス・ケース]]と組んだ。[[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]でも[[1977年ウィンブルドン選手権|1977年]]にアレクサンダーとのペアで準優勝している。4大大会の男子ダブルス決勝では、通算「1勝6敗」の成績を記録した。混合ダブルスでは、[[1976年]]の[[1976年全米オープン (テニス)|全米オープン]]で[[ビリー・ジーン・キング]]夫人と組んで優勝したことがある。
 
息子の[[テーラー・デント]]が[[1981年]][[4月24日]]に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[カリフォルニア州]]で生まれた時、父親のフィルはまだ現役選手であった。デントは[[1983年]]11月の[[1983年全豪オープン|全豪オープン]]1回戦敗退を最後に現役を引退したが、息子のテーラーも世界の一流プロテニス選手へと成長し、世界でも珍しい“親子2代男子テニス選手”として活躍している。
== 外部リンク ==
* {{ATP|id=D074|name=フィル・デント}}
* {{Davis Cup|10002273|フィル・デント}}
* [http://www.daviscup.com/en/players/player/profile.aspx?playerid=10002273 デビスカップ成績表]
* {{ITF|m|10002273|フィル・デント}}
 
{{DEFAULTSORT:てんと ふいる}}