「社会民主党 (日本 1901年)」の版間の差分

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創立者は、[[片山潜]]、[[安部磯雄]]、[[木下尚江]]、[[幸徳秋水]]、[[河上清]]、[[西川光次郎]]の6名で、このうち幸徳を除く5人は[[キリスト教]]徒であった。党の幹事は片山と木下の2人であった。
 
1901年5月18日に結成し、党則の第1条に「我党は社会主義を実行するを以て目的とす」という一文を掲げた。同時に、人類同胞主義、軍備全廃、階級制度全廃、土地・資本の公有、交通機関の公有、公平な財富の分配、[[参政権]]の平等、教育の公費負担の8項目からなる党の理想と、28項目からなる綱領を含んだ「社会民主党宣言書」を発表し、これが『労働世界』をはじめ『[[横浜毎日新聞|毎日新聞]]』、『[[万朝報]]』、『[[報知新聞]]』等に掲載された。19日に幹事の木下が結成の届出を出したが、警察は20日に木下を[[神田警察署]]に呼び出し、「社会民主党は安寧秩序に妨害ありと認むるを以て[[治安警察法]]第八条二項に依り其結社を禁止する旨[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]より達せられたり。右伝達す」という[[警視総監]][[安楽兼道]]の命令書を手渡した。宣言書を掲載した新聞等は発禁になった。
 
こうして、社会民主党は結成の2日後に禁止された。片山は、妻の出産が重なってこの時期の事務から外れていたらしく、後に、20日に結成したところその日のうちに禁止にあったという記事を書いた。この結成後2時間で禁止というエピソードは、その後長く信じられた。もっとも、片山が指摘したように、警察が事前に社会民主党の結成を探知し、[[内務省 (日本)|内務省]]が事前に禁止の方針を決めていたことは事実であった。官憲側から見れば、届出を受理した当日に禁止したのであるから「即日禁止」となる。
 
創設メンバーらは、直後に綱領を変更して'''社会平民党'''を作ったが、これも禁止された。その運動は、[[社会主義協会 (1900年)|社会主義協会]](社会民主党結成以前から存在)と[[平民社]]に受け継がれていった。