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'''コンラト5世コンツキ'''(Konrad V Kącki、[[1385年]]頃 - [[1439年]][[9月10日]])は、[[オレシニツァ公国|オレシニツァ]]、[[コジュレ]]、[[ビトム]]半国、[[シチナヴァ]]半国の公(在位:[[1412年]] - [[1427年]]、兄弟と共同統治)、単独の[[オレシニツァ公国|オレシニツァ公]](在位1427:1427年 - 1439年)。[[コンラト3世スタルィ|コンラト3世]]老公とその妻ユディタの間の次男。他の兄弟たちと同じくコンラトの[[洗礼名]]を名乗ったが、これは[[シロンスク・ピャスト家]]のうちオレシニツァ公家出身であることを示すための慣例だった。
 
1412年に父が死んだ後、コンラト5世は兄[[コンラト4世スタルシ|コンラト4世]]とともに公国の共同統治者となり、未成年だった3人の弟たちはこの時点では除外された。[[1416年]]、兄弟全員が成人に達すると、兄コンラト4世が下の弟たちを諸公とすべく国政から退いたため、共同統治者に格上げされた弟達はコンラト5世を公爵家の家長とした。4兄弟による共同統治は1427年に公国の分割によって終わった。この際、コンラト5世はオレシニツァを保持した。
 
[[1411年]][[10月9日]]までに、コンラト5世は出自不明の妻マウゴジャタと結婚し、5人の子女をもうけた。
#アグニェシュカ(1411年以後 - 1448年9月)…1437) - 1437年、帝国大法官のパッサウ=ヴァイスキルヒェン伯[[カスパル1世シルク]]と結婚
#[[コンラト9世チャルヌィ|コンラト9世]](1415年頃 - 1471年8月14日)
#[[コンラト10世ビャウィ|コンラト10世]](1420年 - 1492年9月21日)
#アンナ(1425年頃 - 1482年8月15日以後)…1444) - 1444年までに、プウォツク公[[ヴワディスワフ1世 (プウォツク公)|ヴワディスワフ1世]]と結婚
#マウゴジャタ(1430年以前 - 1466年5月10日)…1456) - 1456年より[[トシェブニツァ]]の女子修道院長
 
==参考文献==
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{{s-bef | rows=4 | before=[[コンラト3世スタルィ|コンラト3世]]}}
{{s-ttl | title=[[オレシニツァ公国|オレシニツァ公]]<br/> コンラト4世(1416年まで)、コンラト6世、コンラト7世、<br/>コンラト8世と共同統治(1427年まで)|years=1412年&ndash; - 1439年}}
{{s-aft | rows=3 | after=[[コンラト7世ビャウィ|コンラト7世]]}}
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{{s-ttl | title=コジュレ公<br/> コンラト4世(1416年まで)、コンラト6世、コンラト7世、<br/>コンラト8世と共同統治|years=1412年&ndash; - 1427年}}
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{{s-ttl | title=ビトム公(半国)<br/>コンラト4世(1416年まで)、コンラト6世、コンラト7世、<br/>コンラト8世と共同統治 |years=1412年&ndash; - 1427年}}
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{{s-ttl | title=シチナヴァ公(半国)<br/>コンラト4世(1416年まで)、コンラト6世、コンラト7世、<br/>コンラト8世と共同統治 |years=1412年&ndash; - 1427年}}
{{s-aft | after=[[コンラト8世ムウォディ|コンラト8世]]}}
{{end}}