「親王任国」の版間の差分

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'''親王任国'''(しんのうにんごく)とは、[[親王]]が[[国司]]に任じられた[[令制国|国]]及びその制度を指す。
 
[[天長]]3年([[826年]])[[9月6日 (旧暦)|9月6日]]([[826年]][[10月10日]])、[[清原夏野]]の[[上奏|奏上]]に基づき制定された(『[[類聚三代格]]』:親王任国太政官符)。
 
==概要==
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親王任国に充てられたのは、[[常陸国]]、[[上総国]]、[[上野国]]の3国である。いずれも大国だった<ref>この3国が選定された理由について不明であるが、[[時野谷滋]]は常陸については、同国が田積(田の面積)4万町を誇り(『[[和名類聚抄]]』)、なおかつ[[正税]]・[[公廨稲]]がそれぞれ50万束(『[[延喜式]]』)と大国中で屈指の国であったこと、この天長3年に[[常陸国|常陸守]][[甘南備高直]]が前任者との交替の際の失態が明らかにされて更迭された(『[[続日本後紀]]』[[承和_(日本)|承和]]3年4月18日条)結果、[[常陸国|常陸守]]が空席であった事を指摘して、同国選定の背景としている。</ref>。これら3国の国司筆頭官である国守には、必ず親王が補任されるようになった。親王任国の国守となった親王は「[[太守]]」と称した。親王太守の[[官位]]は、必然的に他の国守より高く、通常は[[従五位|従五位上]]から[[従六位#従六位|従六位下]]であるのに対して親王任国の太守は[[正四位|正四位下]]とされた<ref>なお、[[品位 (位階)|四品]]親王の場合、[[弾正尹]]に任じられる場合には「守」、太守に任じられる場合には「行」と記されている(『[[三代実録]]』)。</ref>。
 
[[天長]]3年([[826年]])に初めて3国の太守に任じられたのは、[[賀陽親王]]([[常陸国|常陸]][[太守]])、[[仲野親王]]([[上総国|上総]][[太守]])、 [[葛井親王]]([[上野国|上野]][[太守]])で、いずれも[[桓武天皇]]の[[皇子]]であった。
 
親王太守は、現地へ赴任しない[[遙任]]だったため、親王任国での実務上の最高位は、次官の国介(すけ)であった。平安中期になり、[[受領]]国司が登場した際も、親王任国については介が受領の地位に就き、他国の国守と同列に扱われた。なお、親王任国においては、太守の俸禄は太守の収入に、その他の[[料物]]については[[品位 (位階)|無品親王]]([[官職]]に就けない[[内親王]]含む)に与えられたと考えられているが、詳細は不明である。