「ヤロスワフ (オポーレ公)」の版間の差分

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彼が[[シロンスク]]で既に生まれていたか、亡命先で生まれたのかは不明であるが、[[神聖ローマ帝国]]の[[アルテンブルク]]で育ち、[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]の宮廷で少年時代を過ごした。[[1163年]]に父と叔父の[[ミェシュコ1世プロントノギ]]によるシロンスク回復の後、残りの家族と共にシロンスクに移り住み、そこで政治活動を開始したとされる。しかし、父は[[1157年]]にドイツ人女性クリスティナと再婚しており、ボレスワフ1世は彼女の子供達をかわいがり始めた。ヤロスワフは1160年代か1170年代に聖職者の道を歩むよう強制され、父の遺産相続から外された。
 
しかし、ヤロスワフは権力から取り除かれることに満足せず、叔父のミェシュコ1世と共謀して陰謀をめぐらせ、[[1172年]]から[[1173年]]にかけて内戦を引き起こし、父を[[エアフルト]]へ亡命追いやった。フリードリヒ1世の介入と調停を通じて、ボレスワフ1世は亡命先から戻り低地シロンスクにおける権力を回復することができたが、[[ラチブシュ公国]]と[[オポーレ公国]]を創設、それぞれをミェシュコ1世とヤロスワフに引き渡さなければならなかった。
 
次に表れるヤロスワフに関する情報は1190年代のことである。[[1195年]]に、ヤロスワフはモズガヴァの戦いで彼の大叔父[[ミェシュコ3世]]を支援していたが、そこで[[サンドミェシュ]]伯であるラヴィシュ家のゴヴォレクに敗れた(しかも、ミェシュコ3世はヤロスワフ軍の到着前に戦場から逃亡していた)。3年後の1198年にはヤロスワフはヴロツワフ司教に選ばれ、父と和解した。痕跡はその期間のシロンスクの硬貨に彼らの名が刻まれていたことで分かる。
 
ヤロスワフは父より数か月前の1201年3月22日に亡くなった。埋葬された場所はヴロツワフとされる。オポーレは父が取り戻したが、9ヵ月後に父が亡くなった後は異母弟の[[ヘンリク1世]]が相続、ミェシュコ1世に奪われた。
 
==参考文献==
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