「法住寺 (京都市)」の版間の差分

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=== 院政期 ===
[[1161年]]([[永暦]]2年)から、藤原為光が建立した法住寺を中心とした地域に、為光の寺院を包摂するかたちで後白河上皇の御所がいとなまれる。これが法住寺殿である。その敷地は十余町、[[平家]]をうしろだてにした上皇の権威で、周囲の建物はとりこわされ、広大な敷地に南殿、西殿、北殿の三御所がつくられた。狭義の法住寺殿はこの南殿をいう。南殿には上皇のすまいとともに、東小御堂、不動堂、千手堂がたちならび、広大な池もあった。[[1163年]]([[長寛]]元年)には、[[三十三間堂|蓮華王院]](三十三間堂)が[[平清盛]]の寄進で南殿の北側に造立された。また[[新日吉神社]]、新熊野本宮も法住寺殿内に建立された。[[1176年]]([[安元]]2年)後白河上皇の女御[[建春門院]](平滋子)が亡くなると、女御の御陵として法華堂が建てられた。
 
上皇と平家の栄華を象徴する法住寺殿ではあったが、[[1183年]]([[寿永]]2年)木曾義仲の軍勢によって南殿に火がかけられ([[法住寺合戦]])、上皇は北の門から新日吉神社へむけ輿にのって逃亡、以後上皇は六条西洞院の[[長講堂]]に移りそこで生涯をおえる。[[1192年]]([[建久]]3年)後白河上皇の死により、焼失した法住寺殿の敷地にあらたに[[法華堂]]がつくられ、上皇の御陵とさだめられた。この法華堂は建春門院の法華堂の南側にあたり、蓮華王院(三十三間堂)に対面して二堂が並立していたと推定されている。建春門院の法華堂は14世紀には破損がひどかったという記録があり(『花園天皇宸記』)、現在は、後白河上皇の法華堂のみが残っている<ref>「後白河天皇陵と法住寺殿」 山田邦和 『院政期の内裏・大内裏と院御所』pp204-221</ref>。
 
=== 鎌倉期から江戸末期まで ===