「ミゲル・イダルゴ」の版間の差分

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しかし、1792年には、学長職を辞している。辞職の理由は明らかではないが、推測される理由としては、学校財政に大幅な赤字をもたらしたこと、改革内容が保守派の反感を買ったこと、数人の女性と関係を持ち子どもを産ませていること、賭博好きであることなどが挙げられる。
 
辞職後のイダルゴは、周辺地域のいくつかの教区司祭職を歴任している。この間、彼の住居は「小フランス」と呼ばれるようになり、フランスの啓蒙思想が議論され、音楽やダンスが披露される場所になり、「ミニ・フランス」と呼ばれるようになった。そうこの時期に彼が吸収した啓蒙思想の一部は、陶器・皮革・養蚕といった事業実現のために活用されている。特に1802年に教区住民の経済状況を改善するための事業として実践に活用されている。
 
しかしいっぽう、イダルゴの社交や議論を好む性格は時には周囲の人々との間に軋轢をもたらした。フランス革命以降、フランスの啓蒙思想に対する警戒心が高まっていたためイダルゴは啓蒙思想に傾倒しており、その成果に依拠した彼の神学を推進す彼の議論は、しばしば保守的な思想を抱く人々の反発を招いた。やがて、反発者彼らの中には、イダルゴを異端審問に告発するものもあらわれたため、同審問所は1800年からには彼の素行調査をおこなってい
 
==蜂起==