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|最終出場 =
|経歴 = <nowiki></nowiki>
*南開大学附属中
*天津市棒球隊
*[[中日ドラゴンズ]](1999 - 2002)
*[[天津ライオンズ]](2003 - )
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== 経歴 ==
天津南開大付中卒業後、[[1998年]]に練習生として[[中日ドラゴンズ]]アマチュアの天津チームに入団し、素質を見込まれて。このころから[[1999年陳坤]]らととも晴れて支配下登録選中国球界屈指の若手本格派投手として契約期待される中国本土初のプロ野球選手となを始め。背番号前まで69。元[[陸上競技]]の選手という変わであった経歴を持つ選手である
 
[[1998年]]、予てから中国人選手のキャンプ受け入れなどを行っていた[[中日ドラゴンズ]]に練習生として入団。その年の[[1998年アジア競技大会|バンコクアジア大会]]で非世代別の[[野球中華人民共和国代表|中国代表]]デビューを果たす。
ただし選手育成と中国球界の発展及び交流を目的とした獲得だったため、一軍での登板はなし([[2000年]]に一度だけ一軍登録されたことがあるがすぐに二軍落ちした)。
 
[[1999年]]、素質を見込まれ晴れて支配下登録選手として契約。近代野球では中国本土初のプロ野球選手となる。背番号は69。ただし選手育成と中国球界の発展及び交流を目的とした獲得だったため、一軍での登板はなし([[2000年]]に一度だけ一軍登録されたことがあるがすぐに二軍落ちした)。
[[2003年]]、中日はその成長ぶりを認めて呂との契約を更新する予定だったが[[中国野球リーグ]]設立に伴い、中国側からの要請や本人の強い希望もあり退団(一部報道では戦力外通告となっているが、これは間違いである)。実績を残せないまま日本を去ったものの、その後も中日からの要請で中国球界とのパイプ役を引き受け、精力的に活動している。帰国後は地元の[[天津ライオンズ]]に入団。背番号は17。
 
[[2002年]]、[[世界大学野球選手権]]、[[2002年アジア競技大会|釜山アジア大会]]に中国代表として出場。
[[2004年]]、中国代表に選出。[[2005年]]の[[アジアシリーズ]]、[[2006年]]の[[ワールド・ベースボール・クラシック|WBC]]には右肩の故障で出場できなかったものの、その後順調に回復。
 
[[2003年]]、中日はその成長ぶりを認めて呂との契約を更新する予定だったが[[中国野球リーグ]]設立に伴い、中国側からの要請や本人の強い希望もあり退団(一部報道では戦力外通告となっているが、これは間違いである)。実績を残せないまま日本を去ったものの、その後も中日からの要請で中国球界とのパイプ役を引き受け、精力的に活動している。帰国後は地元の[[天津ライオンズ]]に入団。背番号17。
[[2006年]]、右肩の故障からの見事な復活劇を果たし、中国野球リーグ2006年度の最優秀投手賞を受賞した。アジアシリーズには選手登録されたものの、出場機会は無かった。
 
[[2004年]]、中国代表に選出。帰国後は右肩を故障し、[[2005年]]の[[アジアシリーズ]]、[[2006年]]の[[ワールド・ベースボール・クラシック|WBC]]には右肩の故障で出場できなかったものの、その後順調に回復。
[[2007年]]、中国野球リーグ2007年度のMVP、最優秀投手賞、最優秀右投手賞を受賞。さらにプレ五輪野球競技でも先発登板し、フランスを6回1失点に抑えるものの、かつての師である[[星野仙一]]監督率いる日本相手に5回4失点。敗戦投手になってしまった。
 
[[2006年]]、右肩の故障からの見事な復活劇を果たし、中国野球リーグ2006年度の最優秀投手賞を受賞。中国代表が初出場た同年のハーレム・ベースボールウィークでは大学生で編成された[[野球台湾代表|台湾]]相手に完封勝利を挙げた。[[アジアシリーズ]]、[[2006年アジア競技大会|ドーハアジア大会]]も出場。アジアシリーズでは選手登録されたものの、出場機会は無かった。
[[2007年]]のアジアシリーズでは、その年日本シリーズを制した古巣の中日相手に先発し、7回途中まで投げて5失点(自責点は4点)で敗戦投手にこそなったものの、5回途中まで無安打無得点を継続するなど好投。中日の[[落合博満]]監督に「呂に完投能力があったら負けていたかもしれない」と言わしめた。なお、本人は古巣との試合で投げる事になった事に関して「緊張はしなかった。自分の持てる力を全て見せる事が出来た。とても楽しかった」と語っている。
 
[[2007年]]、中国野球リーグ2007年度のMVP、最優秀投手賞、最優秀右投手賞を受賞。さらに[[北京オリンピック]]プレ五輪野球競技大会先発登板し、フランスを6回1失点に抑えるものの、かつての師である[[星野仙一]]監督率いる日本相手に5回4失点で敗戦投手となるアジアシリーズでは、その年[[日本シリーズ]]を制した古巣の中日相手に先発し、7回途中まで投げて5失点(自責点は4点)で敗戦投手にこそってしまったものの、5回途中まで無安打無得点を継続するなど好投
[[2008年]][[8月15日]]、北京オリンピック野球1次リーグにおいて、中国代表が台湾代表との試合を延長[[タイブレーク]]に持ち込み、4点差を跳ね返し逆転サヨナラで勝利した。この勝利は、中国代表チームの[[オリンピック]]初勝利であり、また東アジア3強の一角である[[野球台湾代表|台湾]]を破ったという意味で、歴史的な1勝であった。呂はこの試合の勝ち投手になり、中国野球の歴史に名を残すことになった。
 
[[2008年]]、3年連続となる中国野球リーグ最優秀投手賞を受賞。[[8月15日]]、北京オリンピック]]野球1次リーグにおいて、中国代表が台湾代表との試合を延長[[タイブレーク]]に持ち込み、4点差を跳ね返し逆転サヨナラで勝利した。この勝利は中国代表チームの[[オリンピック]]初勝利であり、またアジア3強の一角、プロ選手ある[[野球編成された台湾代表|台湾]]を破ったという意味で歴史的な1勝であった。呂はこの試合の勝ち投手になり、中国野球の歴史に名を残すことなった。また、中国野球リーグにおける天津ライオンズの優勝に伴い、3年連続でアジアシリーズに出場(同年は中国として初めて、アジアシリーズに優勝チームが単独出場)した。
[[2009年]]の[[ワールド・ベースボール・クラシック|WBC]]では北京五輪と同じく台湾戦に先発登板し、6回途中まで無失点に抑え、中国も同大会初勝利となる歴史的な1勝をあげた。
 
[[2009年]][[ワールド・ベースボール・クラシック|WBC]]では北京五輪と同じく台湾戦に先発登板し、6回途中まで無失点に抑え、中国も同大会初勝利となる歴史的な1勝をあげた。中国代表として天津ライオンズが派遣された[[第25回アジア野球選手権大会|アジア野球選手権]]にも出場
== 投球スタイル・人物 ==
現在、中国代表でエースとしての地位を確立している。投球スタイルは130キロ台の[[ツーシーム]]にキレのいい[[スライダー (球種)|スライダー]]、[[カーブ (球種)|カーブ]]を中心とした投球で時折[[フォークボール|フォーク]]も投げる。中日在籍時は[[オーバースロー]]だったが、現在は横手ぎみの[[スリークォーター]]に投球フォームを変えている。
 
[[2010年]]、[[2010年アジア競技大会|広州アジア大会]]中国代表に選出されるが、準決勝の[[野球韓国代表|韓国]]戦で[[秋信守]]らを擁する強力打線に屈し、敗戦投手となる。
日本語が得意。中日に在籍していた2002年の秋季キャンプにおいて、取材に訪れていた中日スポーツの記者に、たまたま読んでいた日本語の新聞の内容を何の苦も無く完璧に説明してみせて記者を驚かせていた。また中日在籍時、ほとんど通訳を必要としなかったという。
 
== 人物 ==
来日後、初めて覚えた日本語は「食べすぎ」らしい。これは選手寮などで食事の際、プロ選手としては好ましくないほど食べていたために、同僚の選手(主に[[森野将彦]])などから「食べすぎ」だとよく言われていたからである。
現在、中国代表でエースとしての地位を確立している。代表での背番号は所属チームと同じ17。代表の主力投手である[[王楠]]も[[北京|北京タイガース]]では同じ17番を着けていたが、代表においては呂健剛に譲っており、実質的に中国のエースナンバーとなっている。
 
過去に国際大会で中国代表が台湾代表に勝利したことは3度あるが、その全てで呂が勝ち投手になっている。
 
現在、中国代表でエースとして故障前地位を確立している。投球スタイルは球威を前面に押し出した投球であったが、故障からの復帰後は130キロ台の[[ツーシーム]]にキレのいい[[スライダー (球種)|スライダー]]、[[カーブ (球種)|カーブ]]を中心とした制球重視の投球で時折[[フォークボール|フォーク]]も投げる。中日在籍時は[[オーバースロー]]だったが、現在は横手ぎみの[[スリークォーター]]に投球フォームを変えている。
 
日本語が得意。中日に在籍していた2002年の秋季キャンプにおいて、取材に訪れていた中日スポーツの記者に、たまたま読んでいた日本語の新聞の内容を何の苦も無く完璧に説明してみせて記者を驚かせていた。また中日在籍時ほとんど通訳を必要としなかったという。来日後、初めて覚えた日本語は「食べすぎ」。これは選手寮などで食事の際、プロ選手としては好ましくないほど食べていたために、同僚の選手(主に[[森野将彦]])などから「食べすぎ」だとよく言われていたからである
 
[[2007年]]のアジアシリーズでは、その年日本シリーズを制した古巣の中日相手に先発し、7回途中まで投げて5失点(自責点は4点)で敗戦投手にこそなったものの、5回途中まで無安打無得点を継続するなど好投。中日の[[落合博満]]監督に「呂に完投能力があったら負けていたかもしれない」と言わしめた。なお、本人は古巣との試合で投げる事になった事に関して「緊張はしなかった。自分の持てる力を全て見せる事が出来た。とても楽しかった」と語っている。
 
中日在籍時、チームメイトの[[曹竣揚]]と仲が良かったらしい。
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== 背番号 ==
*'''69'''(1999年 - 2002年)
*'''17'''(2003年 - )
 
== 外部リンク ==